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『鶯の初音』2

 京華は、昨日の残りの筑前煮をタッパーに容れ、庭に出る。そして、
「大家さ〜ん。京華ですよ〜」
 と叫ぶ。
 大家さんは少し耳が遠くなっているので、こうして呼ぶ方が早いのだ。
 というのも、京華の部屋と大家さんの部屋の衝立は、取っ払っているからでもある。

 部屋の中で大家さんの動く姿が見えた。
「京華ちゃん、いらっしゃい。犀君は、もう台所に立ってるよ」
 えっ。随分、早いんだ。
 いつものように庭から上がると、確かに犀が天ぷらを揚げているところだった。
「手伝います」
「ありがとう。じゃ、お湯を沸かすから、お鍋に水を張ってくれるかな」
 京華は、はいと返事をして、多分犀が持ち込んだ大きめの鍋を手に取った――。

 いつしか京華と犀は、本当に仲のいい友だちになった。
 今日も、京華は犀の部屋に上がりこんで、時間を過ごしている。
 年は犀の方が一年上。彼は有名なT大の法科に通っており、将来は弁護士になる予定だと話した。
 彼は、決して正義感溢れるタイプではない。
 ただ気付くと諭されている。そんなところが弁護士に向いているかもしれないと京華は思う。
 バイトしながらの通学だからと、この安アパートに住んでいると言った。
「犀は、これから司法試験の勉強が大変になるのよね」
 まあね、と苦笑いしながら答える犀。大学四回生の一年は、あっという間に過ぎてゆくだろう。
「じゃ、食事の仕度と洗濯してあげる」
 それは悪いよ、と言いながら、でも助かると頭を掻く。
「洗濯は外に出しておいてくれたらやるし、食事はできたら電話するから。スケジュールだけ教えてね」
「有難う。食費渡すから、本当に頼んでいいかな」
 犀が、真面目に頭を下げた。
「うん。私は平気。どうせ、いつもやってることだから。二人が三人になっても、大して変わらない」
 そう言って、読みかけの本に視線を戻す。

 こつん。
 暫くして、そんな音が聞こえ京華は顔をあげた。
 見ると、犀がテーブルに拳を当てていた。
「今から立ち入ったことを聞く。嫌だと思うなら、答えなくていい」
 京華は、犀の言葉に頷いた。
「いつから二人で住んでるの」
「小学校二年の時から」
「その時から、炊事、洗濯、掃除、全部やってるのか」
 京華は黙って頷いた。
「お父さんは……」
「父は、ちゃんといるよ。ただ一緒に暮らせなかっただけ。祖父にそう決められたから。ちゃんと人として暮らしなさいって」
 犀が考え込んでしまった。
 駄目じゃん。
 こんなことで悩んでいたら、弁護士なんて勤まらないよ。
「京華。俺も、ある人から援助を受けて大学に通っている。その人が言うには、人は底辺を知らなければ人の上に立てないと」
 そう。
 世の中には、同じようなことを言う人がいるもんだ。
「いろいろな考え方がある。良い人に巡り会って良かったね」
 あゝ、と犀が肯定した。
「大学を出たら、私はここを出てゆく。これは就職とかじゃなく、もう決まっていることなの。それまでお隣さん同士、楽しく暮らそう」

 今のままなら犀の方が先に出ていく。
 それでいい。
 人との関わりに、愛情を求めてはいけない。
 京華は、このアパートにいる間だけ、犀と親友でいたいと思った。
 恋人としての立場を望んだこともある。
 でも、それは無理だ。
 何故なら、京華は大学を卒業したら、本来の居場所に帰ってゆかなければならないから。そして恋人という存在がいるとなったら、たぶん足枷にしかならない。

『人は本来、優しいものだ。しかし、そこにつけこんで策略をしかける。お金は恐いよ。贅沢を贅沢として認識できなければ、ただの浪費家に成り果てる。人を見る眼を養ってきなさい』
 今。
 祖父の言っていた言葉の意味が、少しだけ分かってきた気がする京華である。

 翌年の春。
 犀は司法試験に見事合格を果たし、ここを出ていった。
 大家さんの育てる梅の木に、その年最初の春告鳥がやってきた朝のことだった――。

 一年後の春。
 再び春告鳥が鳴いている。
 京華もまた大学を卒業し、犀との想い出の詰まったアパートを出ていった。

著作:紫草

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