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『鶯の初音』4

 翌日。
 朝一番に、京華は社長室の扉をノックした。
 しかし祖父とはいえ社長であり、現在の自分の立場は秘書である。
 どう切り出したものかと言いあぐねていると、祖父がいきなり笑い出した。
 何が可笑しいのだろうと、祖父の顔を見る。すると、そこには子供の頃によく見た、祖父の笑顔があった。
 この仕事をするように命じられてから、初めて見る祖父の笑顔だった。

「まだ始業前だ。何でも話してごらん」
 挨拶もできずに立ち尽くしていた京華に、祖父はそう優しく言葉をかけてくれた。
「あ。おはようございます」
 京華は時計を確認し、始業時間までのタイムリミットを十分と考えた。ならば、とっとと話してしまった方がいい。
「昨日、以前住んでいたアパートに行ってきました。そこで同じ時期にアパートにいた東山犀さんという方に再会しました。話をするなかで彼が気付いたことがあります。東山さんの学業支援をしていたのは社長だったというのは本当ですか」
 京華は、祖父からの答えはないだろうと思った。
 それでも今回だけは、どうしても聞きたかった。

 かつて一度として、何故という問いを祖父にしたことはない。
 母が祖父の言い付けで家を出ると言った時も、大学を卒業したら戻ると言われた時も、お金がなくて貧乏の暮らしをしていた時も、いつだって黙っていた。
 そんな暮らしの中で、犀との思い出だけは特別だと信じていた。
 その犀との出逢いですら、自分の与り知らぬところで仕組まれていたのかもしれないと思うと悲しくなった。
 ただ、そんな気持ちを持てただけでも自分は幸せだと思う。だからこそ、口にすることができただけで満足だという気持ちもあった。
 伏し目がちにしていた顔をあげ、祖父を見た。
「失礼致しました。仕事の準備に入ります」
 一礼して去ろうとしたところで声をかけられた。
「今日は、お休みにしようかな」
「今、何と……」
 すると祖父は席を立ち、京華の近くまでやってきた。
「京華とサボリだ」
「私も、サボるんですか」
 すると当然だろう、と言いながら部屋を出て行ってしまう祖父。
「ちょっと待って下さい」
「犀のこと、聞きたいんだろう」
 その瞬間、仕事の段取りなど全て真っ白になった――。

 言葉通り会社をサボって帰宅すると、驚いたことに犀がいた。
「どうして……」
「こちらに出勤しろと連絡があったんだ」
 そう言って携帯をひらひらする。
 まあ座りなさい、と言われ、応接間のソファに犀と並んで座り込む。
「何から話そうか」
 祖父がそう切り出した。
 何かを企んだ子供のように、嬉しそうな笑みを浮かべているのが分かる――。

 曽祖父から受け継いだ会社を、ただ大きくすることだけを考えて働いた祖父。
 でも、いつしか大きな失敗をしていたことに気付いたのだという。
「お金のある生活に妻と息子が堕落しきっていた」
 と……。
 子育てにやり直しはきかない。
 そう落胆していた時、小学校に入学した京華が庭の木にとまる鶯を黙って眺めていたのを見たのだと。
「鶯ですか」
 犀が訊ねる。
「そう。鶯だ。言い方は悪いが庭は広く、私は自宅の庭に梅の木があることも知らなかった。庭師に任せて書類の上の木の名前だけを読んでいた。それを当時、小学校に入ったばかりの京華が堪能しているように見えたんだよ」
 そう言って祖父は京華を見た。
 優しい昔のような笑顔だった。
「過酷なことをしようと思ったのは、その時だ。自分の息子には愛想が尽きていた。だが彼奴が選んできた嫁だけは、ちゃんとしてた」
 祖父も、さすがに貧乏暮らしをさせるつもりまではなかったらしい。
 でも将来、京華を片腕として手元に置くための試練ならと母は、あのアパートに引っ越すことを決めたのだと言った。
 同じ頃、友だちと居酒屋で騒いでいる時に一人で何の注文もしないで輪のなかにいる青年を見かけた。
 どうしても気になって、少し調べた。すると親がなく、奨学金の審査も通らず学費が払えず進学できないと知った。
 祖父はすぐに犀に連絡をとり、そして条件つきで援助しようと告げたのだと。
「司法修習生としての期間が終わったら顧問弁護士となること、でしたね」
 犀が、そう言った。
「そうだったな」
 おじいちゃんって、勇気ある。
 まだ大学に入る前に、そんな条件出すなんて。
「京華の父親には手頃な系列の会社でも与えておけばいい。しかし本社だけは、自分の目で選んだ人間に継がせたかった」
「ちょっと待って。それって、私のこと?」
 祖父が京華の顔を、じっと見る。
 やめてほしい。レッドキャッスルグループのトップなんて、絶対無理。
 でも、それを言葉にすることはできなかった。
 京華の気持ちが伝わるのか。犀は何も言わなかった。そして二人の表情を見て、祖父が改めて声をかける。
「一人で背負うのは辛かろう。だから、もし二人にその気が少しでもあるのなら、お見合いしてみないか」
 お見合い!?
「誰と誰が」
「京華と犀君だよ」
 祖父の、その言葉に互いの顔をまじまじと見つめた二人だった――。

「この木が例の梅の木?」
「違う。あっちの木。ほら、紅い着物の生地がかけてあるでしょ」
 そう言って、少し離れたところにある奥の梅の木を指した。
「春になると、いつも決まった木を止まり木にしてた。この端切れは目印なの。それなのに私がいない間は来なかったって。でも、ここに戻ってすぐの頃に飛んできたんだよ。きっと子孫だろうねって母が話してた」
 祖父が、小さな京華に気付いていたことにも驚いた。
 それよりも何の説明もなくて、二人が恋に落ちると思ってたっていうのは都合よすぎじゃない。
 でも、それこそが人を見る目だと言われた。親族という輪に入れば、犀が助けられることも増えるだろうとも。
「確かにな。俺は一年も無視され続けて、すっかり虜になりました」
 そう、おどけて頭を下げる犀。
 もう。それは言わないで。
「二人にとって、いろいろな意味で新しい旅立ちだ。俺も鶯に遇えるように気持ちに余裕を持って、毎年春を待つことにするよ」
 枝を見上げて言う犀の横顔を眺め、京華は優しく笑った。
「春告鳥とも言うのよ」
 そう言って、京華は犀の腕に自分の腕を絡ませた。
【了】(テーマ:旅立ち)

著作:紫草


「一人暮らし」著作:李緒
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