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『椿』1

 河野遼平は悩んでいた。
 大学の卒業を控えた最后の冬。二流の大学を選んだお蔭で、早々に卒業できることは決まった。
 いっそ、留年できた方が気楽だったかもな。
 というのも、カメラマンという職業で、食べていける筈はないからだ。
 知り合いの雑誌でグラビアや特集記事の写真を撮らせてもらっても、所詮はアルバイトに毛の生えた程度のお金にしかならない。
 学生だったら、バイト感覚で何とかなる。
 でも、卒業してしまったら、どうなるんだろう。
 風景写真専門の師匠、岸本学の元でアシスタントを続けることは決まっている。
 ただ、それでいいんだろうかという思いが遼平の頭をよぎった――。

 結局、彼は高校時代の入賞以降、コンテストに入選したことがない。そしてあの時、入選の評価を受けたのは間違いなく一緒に出品した池端眞子の作品の方だったのだ。
 高校の名前で出された作品に個人名はない。それでも評価は出た。
 もう一度、あいつに会いたいと心から遼平は願った。
 最后に会ったのは、高校の卒業式になる――。

 岸本から知り合いが写真展を開催すると聞かされ、代わりに顔を出してきてくれという頼みに従い招待状を受け取った。冬休みを利用しての、その著名なカメラマンの写真展が盛大に催されていた。
 岸本と同様、多くは風景写真だったが、二割程度を占める人物写真に遼平は目を引かれた。
 そこで彼は、人数をカウントしていた女性に聞いてみる。
 モデル名は、白雪椿。
 無名ながら、カメラマン本人が抜擢したモデルだということだった。

 彼は、そのモデルを知っている。
 白雪椿とは、田路聖恵だ。
 遼平を、写真の世界に導いてくれたコンテストで、モデルを務めてくれたのが彼女だ。高校のカメラ部での撮影、モデルは当時同級生だった田路である。

 会場を回っていると、奥の接待スペースに写真家の守田健吾がいた。そして、その隣に立っているのは、間違いなく田路だと思った。
 遼平は守田に近づくと、岸本の代理だということを告げ、頼まれたグリーティングカードを手渡した。
「君の噂は聞いているよ。三月で卒業なんだろう。そろそろ一人立ちする頃か」
「とんでもありません。まだ岸本先生のところで勉強する予定です」
 慌てて答えた。そして、その声に田路が振り返る。
「河野君…?」
 その視線が真っ直ぐに自分を射抜いた。
「モデル、様になってる。俺が知ってる頃の田路とは別人みたい」
 すると田路は、ころころと笑った。
「守田さんが上手に撮ってくれただけよ。私は前と変わらないもん」
「そっか」

 でも……
 俺には引き出せない顔だ。
 あの時も、そうだった。
 池端眞子の写真の中で、田路は生き生きとしてた。平面の写真に体温を感じた。
 そして、その写真がきっかけで今回の抜擢に繋がったと、さっき聞かされた。
「折角会えたんだから、ご飯食べに行こうよ」
 田路が、そう誘ってくれた。
「貧乏だから、安いとこならな」
 そして展示時間の終了を待って、二人は渋谷へと繰り出した。

「あ。吉野家あるよ」
 電車の中から田路が、指をさす。
「いくら貧乏だからって、もうちょっとマシなとこ行こうか」
「私、好きだよ。牛丼……」
 その言葉を受けて、目の前に座っていた老人が言った。
「いい彼女をお持ちですね」
 その時の、田路の驚いた顔が傑作だったな。
「高校時代の同級生なんです。それに彼は私よりも好きな人いますから」
 田路のその言葉に、今度は遼平の顔が引きつるような笑顔になった。

 おい。
 と、突っ込みたかったが、思わぬ展開と田路がその老人との会話を続けたことで、言葉をかけるタイミングを失った。

 結局、吉野家はやめて、滅多に入らない和食の店に入ることにした。
 そこなら、岸本のお蔭で特別メニューを頼むことができる。
 田路は、凄いを連発しながら店を横切り、通された座敷席で向かい合った。

「貧乏っていうのは、照れ隠しだったのね。こんなお店、私、初めて」
 細かい説明は必要ないだろう。
 黙ってメニューを手渡して、悪いけど、こんな高いものは頼めないとだけ言う。
 知り合いの店員に、岸本特別コースを頼んで、ひとしきり思い出話に花が咲いた――。

 食事もデザートになって、暫しの沈黙が訪れた。
 そこで遼平は思い切って、口に出した。
「池端は、どうしてる!?」
 と。
 突然のその問いかけに、田路の手が一瞬止まった。
 何だろう……
 その一瞬の違和感に、何か隠されていると遼平は感じた。

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著作:紫草

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