『夏の夜の幻』

 夏の夜風が、さらりと吹きぬけてゆく。
 持て余した感情と苛立ちを、夜歩くことで紛らわす。

 それというのも十三年間、一度も呼ばれたことのなかった父の屋敷へ突然来いと云い付けられたからだ。
 母は、一言もなく黙って頭を下げ、僅かな時すら躊躇なく五の君は父の許へ行くこととなった。
 かつて、一度として会いにくることのなかった父を、これからは敬えと母は云った。長子を筆頭に優秀な兄が三人も揃った藤原では、五の君と呼ばれる自分に用はない筈だった。
 しかし、その兄たちが次々と不慮の事故や病で身罷ると、四番目の司の君と捨てられた五の君は俄然注目の的となった。この時ばかりは父の筆で、屋敷に来いと文が届いた。
 司の君は素直な方なのだろう。文の届いた翌日には屋敷に入ったと聞く。ただ自分には出来なかった。幾歳も母と自分を忘れていた父の為に、ほいほいと尾を振るような真似はしたくなかったのだ。
 それも母の頼み、と云われてしまえば従わざるをえない。
 再三催促を受け、季節が一巡りした頃、漸く観念し五の君は藤原の屋敷へと移ってきた――。

 それでも何かが引っ掛かるように気まずい思いを拭いきれず、事在る毎に兄とは対立した。
 そして夜ごと、屋敷を抜け出した。何処へ行くでもない。ただ当てもなく、ふらふらと出歩いていた。

 その日の夜も荒れた屋敷の前に来ると、妖かしでも出そうな雰囲気。少しだけ好奇心を持ち、今にも崩れてしまいそうな門をくぐると、五の君は御簾に向かって声をかけた。
 果たして返答はない――と思いきや、
「誰ぞ」
 と叱責に近い老いた女の声がした。
「怪しい者ではございませぬ。不慣れな場所故、迷ってしまいました。宜しければ、方違えに一晩休ませて戴けませぬか」
 心の中ではぺろりと舌を出し、よくもぬけぬけと嘘八百並べられるものよと、己に対し呆れてしまう。
 暫くすると、静まりかえった屋敷の奥から女たちの、ひそひそと話す声が聞こえてきた。

 どうやら、かなりの危険人物と思われてしまったようだ。
 しかし、こちらの屋敷だって随分怪しいと思うのだが、この際、目を瞑っていてやろう。
 半時程も待たされただろうか。御簾の影に人のいないことを確かめて、縁に腰を下ろしていた。このまま月を眺めて帰るとするか。そんなことを思い始めていると、何処からか衣擦れの音がした。
「大変、お待たせ致し申し訳ありませぬ。どうぞ、こちらへお越し下さい」
 聞こえてきた女の声は先程の老婆ではなく、艶のある女のものだった。

 藤原の屋敷に引き取られると同時に、初冠の儀(元服)こそ行った。
 いつのまにか品行方正とは云い難い噂が一人歩きをしていたものの、噂されるようなことはしていない。
 当然、女の肌も知らぬ。
 流石の五の君も怖気づいた。老婆と思えばこそ借りの宿と思ったものの、これは帰った方が良さそうだと、辞退の意を告げた。
 すると女は、ころころと笑い出した。
 そこは血の気の多い年頃である。五の君は思わず、御簾を撥ね上げた――。

 息を呑む美しさ、とは母のことだと思っていた。
 しかし今、目の前に立つ女性(にょしょう)は、目の離せぬ美しさだった。
「藤原が、外腹の子を引き取ったと風の噂に聞きました。その一人が手の付けられぬ暴れ馬の如く、とか。もしや、貴方様ですか」
 暴れ馬… 何とも嬉しい褒め言葉。そう云ってやりたかった。
 でも喉の奥に言葉が詰まり、何も出てこない。
「こちらへ、どうぞ。気になさることはありませぬ。世に忘れられ鄙びた屋敷ゆえ」
 その言葉に操られるように、五の君は御簾をくぐった。
 灯はなく、月が翳ってしまったら漆黒の闇に包まれる。そんな屋敷に、どうしてこのような女性がいるのか。
 五の君は、女に興味を持った。
「貴女は誰だ」
 しかし女は微笑みを浮かべるだけで、答えはなかった。

 女の白い腕が袂から覗く。この暗がりに、どうしてこんなにはっきりと見えるのだろう。
 もしかしたら、物の怪の類か。
 ただ、もうどうでも良かった。元々、本宅に来るなど気に沿わぬ話だった。ここで命を落としても後悔はない。
 すると女性は、三度(みたび)くすくすと笑い出した。
「私は、ちゃんと人です。ただ少しだけ神様に愛でられたお蔭で幽閉されただけのこと。その後、時代は移っても、誰も私を思い出すことがなかっただけ」
「では、巫女なんですか」
「そうね。父の権力が強ければ、そうなっていたかもしれません」
 そう云うと、彼女の腕が五の君を包んだ。
 香を燻らせた薄絹は、男の本能を呼び起こした。抱き寄せると、女の顔が更に美しく輝いて見えた。折れてしまいそうな細い腰から帯を解く。
 何かを云おうと思った。刹那、女が唇に指を当てる。
「何も仰らないで。夢幻に言葉は要りませぬ。ただ静かに肌を合わせて」
 優しく暖かく、そして柔らかく五の君は初めて女を抱いた――。

 うっすらと夜が明けてきた。
「もう御立ち下さい。そして二度と、この門をくぐってはなりませぬ」
 女は一糸纏まぬ姿のまま、五の君の背を押した。
「嫌です。申し訳ありませぬ。方違えというのは偽りです。だから今夜も、また参ります」
 そう云う五の君の言葉に、女は首を横に振る。
 どうして、と食い下がろうと思ったものの、女の瞳に涙がうっすらと滲んで見えると、何も云えなくなってしまった。
 それでも必ず来るのだと、心に決めて屋敷を去った。
 その夜、再び訪れた屋敷に女は、否、女だけではなく童子も、そして老婆も誰一人残ってはいなかった。
 残されていた文からは、一夜前と同じ香りが仄かに漂っていた。
 二度と会うことのなかった、かの女性(ひと)。彼女との別れは母との別れを思い出す。

「行くのですね」
 と母の言葉は、小さく呟くようだった。
 幼かった五の君は、何を伝えるべきかを知らなかった。ただ黙って…黙ったまま涙を堪え、母の許を去った。里心がついてはと、母は住居を移し以後会うことはなかった。
 五の君が、数ヵ月後の母との儚い別れを知ったのは、左大臣家の婿となり、更に遥か時を重ねた後のことだった――。
【了】

著作:紫草

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