『温もり』

 南風が吹くと、季節が変わる。
 ほんの少し前までの、寒風吹き荒ぶ、荒れ狂う冬の海は姿を消し去り、潮の流れさえも変わるように香りが季節を次へと運ぶ。
 窓辺に立つと、沈む夕陽が一面の海をオレンジ色に染めるのが見えた。

 ふわりと。
 背に温もりが。
 在る。

「何見てるんだ」
 彼の言葉に、視線の行方を変えることなく海とだけ答えた。
 真後ろに立つ彼の体温が、温もりを運ぶ。
「外、出てみようか」
 私が返事をする前に、手を引かれ海風の中にいた。

 断崖というほどではないけれど、少しだけ崖になっている処まで歩いた。
 一分一秒、陽が落ちてゆく。
 落陽。
 あたりのオレンジも少しずつ暗い色へと変化する。
 感傷的になっている自分がいた。

 刹那、風が舞い上がる。

 思わず髪とスカートの裾を両手で押さえた。
「パンツ見えちゃった」
 少し離れたところに立っていた彼が、おどけたようにそう言って近付いてきた。
 何を言っているんだか。
「そんな筈ないでしょ」
 ミニスカートじゃあるまいし。
「見えたって」
 それでも彼は譲らない。
「じゃ、何色だったか。言ってみ」

 にやり。
 そんな目をしたと思った。
「黒〜」
 げっ。当たった。
 何故。
「み、見えるわけないじゃん」
「心の目で見てみました」
 私は、その答えに思わず彼に背を向けた。

 彼は再び、私の背の真後ろに立つ。
 温もり。
 暖かい。

 腕を回されると、すっぽりと隠れてしまう小さな私。
 あ。
 顎を頭に乗せるな。
 でも何となく、そのまま沈む夕陽を二人で眺めていた。たぶん。彼の視線は分からない。

「ね〜」
「ん?」
「上向いて」
 顎をどけた彼に、体を預けるように下から見上げた。
 そこに視線があった。

 彼の瞳にあった、夕陽が消えた。
 残照のなかで、彼の顔が近付いてくる。
「外だよ」
「もう誰にも見えないよ」
 重なる唇が囁いた。
「別に見られても、気にしないし」

 もし私の命が消えても、忘れないで。
 そう言いたかった。
 でも、やめた。
 愛しい気持ちは届いていたから。
 だから自由でいて。

 そっと触れた唇にも、やはり彼の温もりは宿っている――。
【了】

著作:紫草

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