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『桜の樹に宿る精霊』1

 幾星霜。
 桜の樹に宿り、人を見送る。
 我、桜が精霊にあり。

 言葉は残酷。
 たった一言…
 たった一言の告げ口だった。
 決して、彼を失脚させるつもりじゃなかった。
 彼の名で公表される、私の作品達。
 いつも手柄を取られてしまうようで、もう我慢の限界だった。
 だからこそ、一言だけ。それも打ち上げの席で、直接は関わりのない人に告げた言葉だった。
『私の署名は塗りつぶされているの』

 翌日、TVのリポーターと名乗る人が大勢やってきた。
 そして私の作品を、彼が「贋作」と発表したと言う。
 贋作なんて描いてない。
 彼がテーマを決める。
 子供というテーマなら、風船を。恋人なら、キスシーンを。そして春なら、桜並木を描いた。

 最も新しい作品は、近所にある桜の古木だった。
 それは大好きな桜の木だったから、どうしても自分のサインを残したいと頼んだ。
 でも彼は、許してくれなかった。
 絵描きは、どんな作品にも自分のサインを残す。たとえ気付かれることがなくとも、キャンバスにサインを入れる。
 それが作家の意思表示だと、かつて同じ絵描きだった祖父が言っていた。
 だから私もサインを残した。上から油絵の具で塗りつぶし、誰かの目に触れることがなくとも…。
 しかし贋作と発表された作品は、もう二度と正当な評価は得ない。

 大好きな桜の古木が最后の作品になった。
 もう自分を守る術がなかった――。

 絵を描くことが、大好きな女の子が居た。
 後の調査で、絵の下から彼女の署名が発見された。
 技術の進歩は、真の画家の命を救ったのだ。

 その事実を知ることもなく彼女が縊れて逝ったのは、桜の蕾が一斉に花開いた夜である。
 我は、またしても幼気な少女を見送ることしかできなかった。
 その年の桜は、少女の気持ちを儚んでか。散り急いだ少女のように、一夜限りで終わった…。

【了】

著作:紫草

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