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『桜の樹に宿る精霊』5

 幾星霜。
 桜の樹に宿り、人を見送る。
 我、桜が精霊にあり。

 桜並木というものではなく、川沿いに一本。その川に乗り出すように倒れこむように生えている古木の桜。
 毎年、今度こそ枯れてしまって花を咲かすことはないんじゃないかと町内の人は話すけれど、その話が聞こえているのかいないのか。古木は必ず芽吹き花を咲かせる。

 千尋が物心ついた頃には、この川沿いの桜は一本だけになっていた。
 祖母の話では、昔は川に沿ってずらりと並んだ桜の名所だったというけれど、千尋の記憶には一本の桜しかない。

 何故、この一本の樹は枯れなかったのだろう。
 毎日、小学校へ通っていた通学団の頃も、一人で通った中学の頃も、そして自転車で通った高校時代も、毎年桜は咲き続けた。
 母のいない千尋には、いろいろな内緒話を聞いてもらった大事な桜。父を亡くした時も、涙を流したのは、この桜の樹の下だけだった。

 祖母と、近所の人達に育てられ、やがて大人になった。
 そして千尋の引っ込み思案の性格を案じた祖母は、近所の世話好きなオバサンに見合いの話をもってきてもらった。
 確かに二十歳を遥かに過ぎても、恋人の一人もできなかった千尋にはその方がいいのだろう。
 しかし千尋にだって夢はあった。
 いつか好きな人ができて、その人とつきあって、そして結婚できたらいいと思っていた。ただ、それは母や父を幼くして亡くしたことで望む気持ちが弱くなってしまっていたのも事実だった。
 いつか死が二人を別つ結婚を、望まなくなっていた。
 誰かと別れるのは寂しい。まして、それが好きな人なら尚更だ。

 千尋が川沿いの桜の元へやって来たのは、何年振りのことだろう。
 桜は千尋が憶えている根元よりも、もっと大きく地に根を張り巡らしていた。
 そして、見上げた桜の樹の上に誰かの姿を見たような気がした。

 そういえば子供の頃、泣きたい時に此処に来ると、いつも誰かの声がしていたような気がする。
『大丈夫だよ。悲しまないで』
 そんな言葉を微かに憶えている。あれは自分が生み出した妄想だと思っていた。

「あれって本当に妄想だったのかな」
 思わず言葉になった。
 小さな頃、祖母が言っていたことがある。
 この樹には精霊が棲んでいて、だから一本だけ枯れることなく残ったんだと。
 あれは、もしかしたら本当のことだったのかもしれない。

 ならば…
「精霊さん。私、このお見合い受けてもいいんだよね。っていうか、今更断わることもできないんだけど。おばあちゃんが一人になっちゃうって言ったら、一緒に住んでくれるって言ってくれたんだって」
 千尋にしてみれば、断わる一つの言い訳だったかもしれない。
 でも写真の中の人は、ただ笑っているだけで何も話はできない。なのに、どんどん話だけが進んでしまう。
「養子に入ってもいいなんて、今時、言わないよね。私は、おばあちゃんを大事にしてくれるならそれでいいんだ」

 千尋がそう言った時だった。
 桜の花びらが千尋を取り巻くように散り、あたりを桜色に染めた。
『大丈夫だよ。君は、きっと幸せになる。我が必要でなくなるくらいにね』

 その何とも優しげで不思議な聲は、二度と聞こえることはなかった。
 けれど千尋には確かに聞こえたのだ。
「精霊さん。私をずっと見守っていてね。絶対に枯れたりしないで」
 そう残して、千尋は桜の樹から離れ帰っていった。翌日は、お見合いだった。
 不思議な聲に勇気をもらい、彼女は見合いへと向かうだろう。そして写真の中同様、優しく微笑んでくれる彼と出逢うのだ――。

『おやおや、まさか聲を聞かせてしまうとは…』
 樹の上で、千尋の後ろ姿を見送りながら精霊は思う。
 大丈夫。笑いの絶えない君の顔が手にとるように分かるよ。
 いつか、君の生んだ幼子とこの樹の下で遊んでくれる。
 その日まで、我はこの樹を枯らすことなく咲き続けていることだろう。

【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2011年4月分小題【桜】
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