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『躑躅』1

 そこにいる、この人を私は知っている――。

 春。
 皐月紗依(さつきさい)は大学三年に無事進み、キャンパスでは葉桜になった木の下で、今度はつつじが咲き誇っていた。
 午後の授業のある日には学食で昼食をとり、その後キャンパスの奥にある小さめのベンチに一人座り、文庫を読む。それは紗依の、お決まりのコースだった。

 それが、この数ヶ月。この穏やかな時間を奪われてしまっていた。
 今年の初め。
 冬休みの静かな学校に、紗依は提出物を持って来た。ついで、と言われ教授に頼まれた資料整理を手伝い、帰ろうと外に出てきた時。
 突然の雨に、慌てて学校に引き返した時のことだった。

「お前も雨宿り!?」
 駆け込んだ途端、そう声をかけられた。
 見ると、背の高いその人も肩から雫を落としている。紗依は黙って頷いた。
「急に降り出したからな」
 その人は、そう言って紗依の頭を持っていたハンドタオルで拭いてくれようとする。慌てて、その手から逃れた紗依。それを見て、彼は悪い悪いとハンドタオルを差し出した。
「結構です。そんなに濡れてないし」
 でも結局、紗依はそのハンドタオルを手渡され、その日からその人に追われるようになったのだった。

「ストーカーって呼びますよ」
 今では学校の名物とまで呼ばれている、二人の午後のひと時。ベンチに座る紗依の目の前に立ちはだかる人。
「ストーカーっていうのはね。自覚がない人のことを言うんだよ。俺は自覚あるもん。紗依を追っかけてるって。だからストーカーとは呼ばないの」
 屁理屈、という言葉を何度使ったか分からない。
 でも、この人は懲りてない。
 紗依はいい加減、めんどくさくなってきた。
「私の何処がいいんですか」
 そんな紗依の言葉に、う〜んと腕を組む人。
「本の中でしか、生きていないように見えるとこ、とか」
「はぁ〜?」
「紗依は、さ。表情豊かなんだよ、本読んでると。でも現実に戻ってくると笑わなくなる。俺は現実の紗依が笑ってるとこが見てみたい」

 この言葉はちょっと衝撃だった。
 何故なら紗依には自覚があったから。自分は笑わない、というより現実世界では感情がないように生きている。
「どうして、そんな風に思ったんですか」
 そこで漸くベンチに腰を下ろした。同じ三年で、浪人してるから年は一つ上。誰からも好かれててリーダー気質で、そして女の子にとってもモテテる人。
 彼は、その名を小鳩武(こばとたける)といった。
「俺だけに笑ってみせてよ。ほかの誰にも笑わなくていいから」
 そう言って、武はちょっと照れたように微笑んだ。みんなが思わず引きこまれてしまう微笑みを、その顔に見た。

 そして、そう言われて初めて、紗依は覚悟ができた。
「私は… 人が嫌いだから」
 紛れもなく、それは紗依の本心だった。

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著作:紫草

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