「時に落ちる」番外編

『涙』その参

「仁のお嫁さんになる」
 花穂が、そう言葉にした時、すぐには反応できなかった。
 目の前にいる十六歳の女の子に、それを云わせてしまったことが苦しかった。
 でも後戻りすることはできない。一度聞いた言葉を、聞かなかったことにするなんてできない・・。

 ――神埼仁の心の中は、様々な想いがうごめいていた。
 三十を過ぎ、恋人と呼ぶ女はいない。
 誰と話をしていても、いい友だちとしか思えない。
 心が動かない。
 一目惚れを良し、とは云わない。
 でも何か直感的に感じるものがあって、初めて心が動くような気もしてた。
 仁が、それまで付き合ってきた女性の殆どが、最初に「いいな」と思った人ばかりだ。
 それが、今はない。
 特殊な環境のなかで暮らすからだろうか。
 そう考えたこともあった。
 でも、そんなの変だ。
 やっぱり自分の心が動く女に出逢っていないと思っていた。

 花穂に逢ったのは、そんな頃だった。
 セーラー服を見て、すぐに一回り以上の年の差があると分かった。
 それでも、彼女の瞳に引き込まれた。黒目のはっきりした、大きな目。綺麗と云うよりは、丸い輪郭の可愛い雰囲気の子。まだ少女と呼んでもいいくらいの、女の子。
 突然、見知らぬ土地へやって来た彼女はパニックを起こしかけていた。そして声を殺し、何かに耐えるように涙を流す。その姿に心が動いた。
 たぶん、それが最初の好意だ。

 仁は、できるうる限り自然に声を掛けた。
 年の差を感じて欲しくなかったから。
 花穂の内側の人間になりたかったから。
 話すと、彼女の内側にある強さに気付いた。
 暮らしてみると、彼女の知識の豊富さに感服した。
 荒れ放題だった畑を「耕す」と云い、暫くすると、村でも煩型で通っている人と仲良くなっている。
 花穂に訳を聞くと、
「おじさんが腐葉土を分けてくれたのよ」
 と答えた。
 その腐葉土は、多くの村人が喉から手が出るほどに欲しがっている物だった。
 いろいろなことを試して、便利に暮らす工夫をする。
 如雨露やシャワーを作ったと云われた時は、何をしたんだと思ったが、夏だけなら充分汗は流せるし、花に遣る水には如雨露の方が使い易そうだった。
 細籤(ほそひご)を麻紐で編み始めた時は、次は何だと思った。網戸なんてもののない暮らしは虫との闘いでもある。せめて風の通る戸を作ると、簡易網戸を作り上げた。
 その籤も、有数の竹林を持つ人から分けてもらったのだと簡単に云う。

 仁が此処に来た時の苦労を思うと、花穂はみんなに可愛がられていると思った。
 そして、そう思った時、自分だけの花穂でいて欲しいと初めて思った。この時に感じた想いこそが、彼女に対する愛情を確信した想いだった。
 十四も年下の女の子に恋をした。心ごと持っていかれた恋だった。

 その花穂が心を閉ざしてしまう程の苦痛を味わったと知ったのは、彼女が倒れた後だった。
 彼女を失いたくない、と思った。
 二度と離れない、と誓った。
 それでも仕事を始めてしまえば不可能になる。
 仁は、ずっと休んだままだ。
 二人で食べる分くらい何とかなる。畑を耕して、暮らせばいいと思っていた。

 そんな時、花穂が云った。
「医療所へ行って」と。医者に戻ることはない、と決めていたのに。
 一番身近にいて、一番好きな子の心の病に気付かない医者なんて、やぶ医者だ。だから医者にだけは、戻らないと思ってた。
 その花穂が医者に戻れと云う。
 仁の答えは、プロポーズだった。

 年の差が何だ。
 ここでは十六で嫁に行く娘は、たくさんいる。

 結婚しよう、と。
 ずっと一緒にいよう、と口にしていた。
 花穂に返事を云わせたくなくて、ずっと黙っていた言葉を思わず口にした。
 彼女は答えた。

 仁のお嫁さんになる、と。
 ごめん、と云いそうになって、慌てて「ありがとう」と云い変えた。
「何も苦しまない人生を、せめて、これからは俺が贈ろう」
 彼女の頬をつたう涙に、仁は、そっと口づけた。
 相変わらずの大きな瞳は閉じられることはなく、愛しげに仁を見つめていた。
【了】

著作:紫草

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