その日の帰り道。
私は、なかなか気持ちの整理がつかなかった。
戸板に風呂敷包みと敷き布団を一枚乗せ、ついている縄を引く。下にある小さな車が、ごろごろと転がって戸板は動き出した。
仁が、大八車の先祖みたいなものだと教えてくれた。
縄を引く仁の後ろを、私は黙って歩いた。
歩き慣れた、いつもの一本道。
今では当たり前になった舗装されていない道。
道端に咲く名もない紫の花も、いつものように咲いている。
なのに何かが違ってた。
どうしたんだろう。
都宮詩が人妻でも、私には関係がない。
でも、どうしても気持ちが揺らいだ。
不倫?
この時代に、そんなのあったっけ・・。
都宮詩の旦那さんは、知ってるんだろうか。
子供たちは、どう思っているんだろうか。
私には、分からない。
大人の都合なんて、知りたくもない。
私は、また捨てられるのかもしれない。ううん、きっと捨てられる。
頭の中を巡る不吉な予感は、私を追い詰めた。
次の日も、その次の日も、来る日も来る日も、私は苦しんだ。
都宮詩は相変わらず、やって来る。
彼女に会うたびに、私の心が閉じてゆく――。
「花穂ちゃん?」
仁の声は聞こえている。
いつもの仁の声。あやされているような、諭されているような、誰に対しても同じトーンの優しい声。
なのに、何故だろう。
私は返事ができなかった。
「花穂ちゃん。花穂!」
体を揺すられ、頭がガクンと前に倒れる。
「おい、花穂・・」
遠くで仁の声がする。
変なの、私は仁の腕の中にいるのに。
私の名を呼ぶ仁の声は、いつしか届かなくなった。
――気が付くと、布団に寝かされていた。
傍らに仁が眠っているのが見える。
どうしたんだろう、ちゃんと布団に入ればいいのに。
私は、仁の体に触れる。そっと、そぉ〜っと、起こさないように、驚かさないように。
その手に仁が気付いた。
「花穂・・」
次の瞬間、私は思い切り抱きしめられた。
「仁、苦しい」
「あ、ごめん」
腕が少しだけ、緩んだ。
「医者の癖に、花穂の心が病んでいたことに気付かなかった。ごめん、本当にごめんな・・」
仁は、そう云って謝っている。
心が病んでいる。
私の心が。
仁は、そう云った。
「大丈夫だよ。私は平気」
「いったい今まで、何度その言葉で誤魔化してきたんだ。もう、全部解決してる。だから、から元気で無理する必要はなくなったんだよ」
彼の瞳が潤んでる。
何故、泣くの?
仁の腕が私を支える。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる・・。
唇が、触れる、と思った刹那、私は仁の体を突き飛ばした。
「俺とキスするの、嫌?」
そんなこと、ない。
でも言葉は出てこない。私は首を横に振り、小さくごめんと謝った。
「解決してるって云ったろ。もう、誰かに怯えることはない。これからは一緒にいよう。ずっと、いつも、一緒にいよう」
「でも、私は・・」
怖い。
それ以上、聞くのが怖い・・。
「終わったんだ! 何もかも。文長が全部教えてくれた。最初から、ちゃんと話しておけばよかった。今が大事と云いながら、現代の時間に拘った俺が悪い」
仁は、そう云って泣いてくれた。
ううん、分かってたよ。私は、まだ十六歳だもん。三十歳の仁から見れば、充分子供だもん。
でも、大人になるのを待っててくれると思った。
きっと、いつか恋人になれると信じてた。
時間の長さじゃない。
私は、仁に出逢うために落ちてきたのだと、逢った翌日には思ってた。
なのに、あの悪夢が訪れた。
あれは・・、そう。未来から落ちてきて一週間くらいたった頃だった。
見知らぬ男が二人、突然やって来た。
その男たちは云った。
仁は迷惑していると。
妹みたいなものだから、仕方なく置いてやっていると。
そして、仁には決まった女がいると。
その後、何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
でも、少なくとも私には聞かされた言葉の方が、ショックだったような気もする。
羽交い絞めにされ、二人の男に乱暴されて漸く解放された時も、体の痛みより心の痛みの方が勝っていた。
仁には女がいる。
私は、いつか捨てられる。
なら、それまでは黙って置いてもらおうと思った。
レイプされて、初めて仁が本当に好きだと気付いた。
ファーストキスの相手は誰、と仁に聞かれたことがある。
十六歳の誕生日、私は祖母から色々な話を聞かされて、何だか楽しくなかった。付き合うという言葉よりも、ずっと幼い関係のボーイフレンドを夜呼び出した。出てきてくれるとは思ってなかった。
でも、その子は来てくれた。
初めて会う夜の顔をした彼と、大人になったような気がした自分。
何となく、その気になってKissをした。
興味津々だったから、大きな目を開いたままでいると、目ぐらい閉じろと叱られたっけ。そんな可愛い恋は、私がここに落ちてきたことで終わった。
それ以上のことは、何もなかった。
仁も最初にした、あのたった一度のキスだけ。大事にしてくれている、と感じていたのに・・。
その時の男たちを文長の家の隣で見た時は、心臓が凍るかと思った。
その上、その家が都宮詩の家だと聞かされて、いつバレるのかと怯えて暮らした。
都宮詩の言葉は、心に突き刺さった。
彼女は云った。
いつか、仁と一緒になる、って。