第十話 仁

 その日の帰り道。
 私は、なかなか気持ちの整理がつかなかった。
 戸板に風呂敷包みと敷き布団を一枚乗せ、ついている縄を引く。下にある小さな車が、ごろごろと転がって戸板は動き出した。
 仁が、大八車の先祖みたいなものだと教えてくれた。
 縄を引く仁の後ろを、私は黙って歩いた。

 歩き慣れた、いつもの一本道。
 今では当たり前になった舗装されていない道。
 道端に咲く名もない紫の花も、いつものように咲いている。
 なのに何かが違ってた。

 どうしたんだろう。
 都宮詩が人妻でも、私には関係がない。
 でも、どうしても気持ちが揺らいだ。
 不倫?
 この時代に、そんなのあったっけ・・。
 都宮詩の旦那さんは、知ってるんだろうか。
 子供たちは、どう思っているんだろうか。
 私には、分からない。
 大人の都合なんて、知りたくもない。
 私は、また捨てられるのかもしれない。ううん、きっと捨てられる。

 頭の中を巡る不吉な予感は、私を追い詰めた。
 次の日も、その次の日も、来る日も来る日も、私は苦しんだ。
 都宮詩は相変わらず、やって来る。
 彼女に会うたびに、私の心が閉じてゆく――。

「花穂ちゃん?」
 仁の声は聞こえている。
 いつもの仁の声。あやされているような、諭されているような、誰に対しても同じトーンの優しい声。
 なのに、何故だろう。
 私は返事ができなかった。
「花穂ちゃん。花穂!」
 体を揺すられ、頭がガクンと前に倒れる。
「おい、花穂・・」
 遠くで仁の声がする。
 変なの、私は仁の腕の中にいるのに。
 私の名を呼ぶ仁の声は、いつしか届かなくなった。

 ――気が付くと、布団に寝かされていた。
 傍らに仁が眠っているのが見える。
 どうしたんだろう、ちゃんと布団に入ればいいのに。
 私は、仁の体に触れる。そっと、そぉ〜っと、起こさないように、驚かさないように。
 その手に仁が気付いた。
「花穂・・」
 次の瞬間、私は思い切り抱きしめられた。

「仁、苦しい」
「あ、ごめん」
 腕が少しだけ、緩んだ。
「医者の癖に、花穂の心が病んでいたことに気付かなかった。ごめん、本当にごめんな・・」
 仁は、そう云って謝っている。

 心が病んでいる。
 私の心が。
 仁は、そう云った。
「大丈夫だよ。私は平気」
「いったい今まで、何度その言葉で誤魔化してきたんだ。もう、全部解決してる。だから、から元気で無理する必要はなくなったんだよ」
 彼の瞳が潤んでる。

 何故、泣くの?

 仁の腕が私を支える。
 そして、ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる・・。
 唇が、触れる、と思った刹那、私は仁の体を突き飛ばした。

「俺とキスするの、嫌?」
 そんなこと、ない。
 でも言葉は出てこない。私は首を横に振り、小さくごめんと謝った。
「解決してるって云ったろ。もう、誰かに怯えることはない。これからは一緒にいよう。ずっと、いつも、一緒にいよう」
「でも、私は・・」

 怖い。
 それ以上、聞くのが怖い・・。

「終わったんだ! 何もかも。文長が全部教えてくれた。最初から、ちゃんと話しておけばよかった。今が大事と云いながら、現代の時間に拘った俺が悪い」
 仁は、そう云って泣いてくれた。
 ううん、分かってたよ。私は、まだ十六歳だもん。三十歳の仁から見れば、充分子供だもん。
 でも、大人になるのを待っててくれると思った。
 きっと、いつか恋人になれると信じてた。
 時間の長さじゃない。
 私は、仁に出逢うために落ちてきたのだと、逢った翌日には思ってた。
 なのに、あの悪夢が訪れた。

 あれは・・、そう。未来から落ちてきて一週間くらいたった頃だった。
 見知らぬ男が二人、突然やって来た。
 その男たちは云った。

 仁は迷惑していると。
 妹みたいなものだから、仕方なく置いてやっていると。
 そして、仁には決まった女がいると。

 その後、何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
 でも、少なくとも私には聞かされた言葉の方が、ショックだったような気もする。
 羽交い絞めにされ、二人の男に乱暴されて漸く解放された時も、体の痛みより心の痛みの方が勝っていた。

 仁には女がいる。
 私は、いつか捨てられる。
 なら、それまでは黙って置いてもらおうと思った。
 レイプされて、初めて仁が本当に好きだと気付いた。

 ファーストキスの相手は誰、と仁に聞かれたことがある。
 十六歳の誕生日、私は祖母から色々な話を聞かされて、何だか楽しくなかった。付き合うという言葉よりも、ずっと幼い関係のボーイフレンドを夜呼び出した。出てきてくれるとは思ってなかった。
 でも、その子は来てくれた。
 初めて会う夜の顔をした彼と、大人になったような気がした自分。
 何となく、その気になってKissをした。
 興味津々だったから、大きな目を開いたままでいると、目ぐらい閉じろと叱られたっけ。そんな可愛い恋は、私がここに落ちてきたことで終わった。
 それ以上のことは、何もなかった。
 仁も最初にした、あのたった一度のキスだけ。大事にしてくれている、と感じていたのに・・。

 その時の男たちを文長の家の隣で見た時は、心臓が凍るかと思った。
 その上、その家が都宮詩の家だと聞かされて、いつバレるのかと怯えて暮らした。
 都宮詩の言葉は、心に突き刺さった。
 彼女は云った。
 いつか、仁と一緒になる、って。

著作:紫草

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