最終話 時を昇る

 天正十一年十一月

「帰蝶、お帰り」
 仁が静かに帰蝶を招き入れる。
 帰蝶は何も云わなかった。そのまま、ふたりは文長の眠る部屋へと進む。
 襖に手をかけようとした仁を、帰蝶の手が止めた。
 何?という顔で仁が見ると、帰蝶は首を横に振る。
「分かった。向うで待ってるから、何かあれば声を掛けて」
 私と仁は、その場に帰蝶を残し医療所へ戻った。

「信長のお骨って、あるの?」
 私は帰蝶に聞こえないところまで来ると、仁に聞く。
「史実には、ないとされてるね。蘭丸が火を放ったことで光秀は信長の首を晒せなかった筈だ」
「帰蝶が、帰蝶の抱えていた方が信長だと云うの」
 仁は、それもあるかもな、と納得してる。

 暫くして帰蝶が戻ってきた。
「彼が誰だか分かる、帰蝶」
 私は、素直に聞いた。
「文長様でしょ。どうしてそんなことを聞くの」
「私には分からなかったから。双子の顔を見分けることはできないもの」
 納得はしてる。あの人がどちらでも構わないと思ってる。
 でも本当のことが分かるなら、知りたかった。
「本人に聞けばいいじゃない。いくら双子でも、声は違うんだから」
「聞けたら苦労しないわよ!」
「何故」
「だって、眠ってるもの」
「今は起きておられるわ」
 それを聞いた直後の動きは、私より仁の方が早かった。
「何?」
 飛び出して行った仁を、驚いた顔で見送る帰蝶に私は云った。
「眠っていたの、ずっと。彼は今日まで目覚めなかった」
 帰蝶の声が彼を呼び戻した。ならば彼は文長に違いなかった。

 落ち着いて話を聞くと、文長の記憶は本能寺から途切れていた。
 ただ弟を助けることができなかったと、その悔やみが彼を眠らせた原因だろうと仁は云う。
「帰蝶もいたの、本能寺に」
「いいえ、私は近くの宿にいた。そこに文長様が現れて信長様は何処だと」
 すでに本能寺に出向いた後だった。
 長隆の云った軍勢は、文長がやめたのだという。人が増えると何をするにも時間がかかる。二人きりなら人目にもつかない。
 何が起ころうとしているのか。文長は知る由もなかった筈なのに、彼は時間を取った。優先されるべきは、信長が本能寺を出ること。
 文長は、すぐに本能寺へと向かい信長に会い退去するよう説得したらしいけれど、聞く耳を持たない彼には無駄だったという。
「俺が、本能寺に滞在することすら許さなかった。気付いた時には光秀の軍が寺を囲んで襲っていたんだ」
 何かを思い出したのだろう。
 悲しそうな瞳に、虚ろな顔を見せる。
「先に行った長隆だけでも摑まらないものかと忍び込んだ。俺を信長と間違う誰かに捕まったところで火があがり、そいつは慌てて俺を放り出し寺の中へ入っていったよ」
 文長の言葉は、まるでドラマの粗筋を聞いているようだった。
 幾度も見た時代劇の、本能寺の炎上シーン。
 でも違うんだよね。

「蘭丸が出てきて、信長が中で自害するつもりだと云った。長隆もどこかにいる筈だというが、それが何処かは分からなかった。敵も見方もなく逃げ惑っている者が右往左往し、やがて煙に巻かれた者がバタバタと倒れていった」
 頭から水を被り、死を覚悟して中へ入ったという文長。
 最期の信長の許へ辿り着いた時、そこには長隆が信長の左手首を持って待っていた。火は長隆さえも呑み込もうとしていた。
「あの時、長隆からその手首を渡され、忍びと共に抜け出した。あの後、長隆は地下にあった火薬庫に火を放ったのだろう。その爆発に巻き込まれ、その後の記憶はない」
 次に気付いたのは帰蝶の声がしたからだと笑った。
 その帰蝶が云うには、忍びが手を届けたのだと。ただ信長の絶対に誰にも教えるなと云う伝言があったので、一人でここへ運んできたのだとも。そして信長の一周忌法要を無事に済ませ、やって来たと云った。
「後は、お鍋の方が好きにするでしょう」
「お鍋の方って?」
 私は聞きなれない名にすかさず問いただす。
「信長様が最後に寵愛した女よ。でも本当の最後の愛は蘭丸にだったけれど」
 あ〜なる程、と思い当たる。
 蘭丸は信長に愛された小姓だと史実にも残っている。
「でもね」
 と帰蝶は続けた。
「蘭丸は、あんな処で死ぬ心算はなかった筈よ」
 思わず私と仁は顔を見合わせる。
 帰蝶は何を云おうとしているのか。

「彼らは突然現れた。まるで仁や花穂が、ある日突然落ちて来たように」
 まさか、蘭丸が時を落ちた者だというの。
「森家は、何故三人もの幼い男子を突然儲けることができたのかしら。私は知らない。長子長可殿を知る私は、彼に十歳以上も年の離れた幼い弟が三人もいたことを知らない」
 でも歴史には、ちゃんと森蘭丸として残っていた。
「その顔は腑に落ちぬといった感じね。時を落ちる者は、何も歴史を変えないと決まったわけではないでしょう。落ちた者は繰り返し繰り返し、歴史を作り変えているのかもしれない」
「帰蝶・・」
「だから花穂も胸を張って、この時代を生き抜いて欲しい。ふたりの子が歴史を作り、未来が変わっていてもいいでしょう。それこそ、この世の不思議というものよ」

 そっか。
 私のため、私が此処で生きてゆく意味を、ちゃんと見出せるように。そのためだけに話してくれた。
 蘭丸が未来の子なら、確かに面白い。
「花穂」
 今度は、文長だ。
「もし元の時代に戻れるといわれたら、どうする?」
「えっ?」
 思いもかけない言葉に、狼狽する。
「そんなこと、無理よ」
「もしも、だよ」
 もしも・・。
 いいえ、もし帰ることができるとしても私は今がいい。
 三人の子供たちと、お腹に宿る命と、そして仁のいる処がいい。
「私は此処で生きる。この時代の時を、未来に向かって昇るわ」

 仁が私の肩を抱く。
 文長は、復活したらまた働くと意気込んでいる。
 帰蝶も、もう何処にも行かないという。
 時代は、羽柴秀吉と名乗る男が掌握する。
 でも私たちには関係がない。
 いつも、いつの世も、好きな人がいて、その人との子を育んで、そして小さな幸せの中に暮らす。

 それがいつの時代でもいい。
 仁と出逢えた幸せに、文長たちと出会えた幸せに感謝する。
 今を生きる私たちに、歴史が与えた特別な意味を胸の奥底に秘めながら、いつかこの時代の土に還ろう。
【了】

著作:紫草

 
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