第九話 帰蝶の言葉

 驚いた時間と歩いたことで、足の痺れは取れた。
 帰蝶は私を部屋へ招きいれると、仁にも入れと命令する。
 それだけでも、この人は本物の濃姫だぁ、と感じた。あの仁に命令できる女が、いったい何人いるだろう。

「仁は、いつも帰れと云うの。私が安土にいなくても誰も心配なんかしないのにね」
 帰蝶が、最初にそう云った。
 仁も、諦めた顔で隣に座り込んだ。
 そして私は謝った。
 何に謝っているのか、分からなかったけれど、それでも私は謝った。帰蝶に対してなのか、仁に対してなのか、それすらも分からないまま。
 当然、仁は不思議そうな顔をする。
「仁。花穂のこと、気にいったのね」
 帰蝶が、そう云って私たちの間に流れた時を切り取った。

「仁はね、落ちてきて、あっという間に人々の間に入り込んだの。いつも人に囲まれていて、特に女たちは一緒になりたいと望んだわ。文長様が家を与えたのだって、誰かと暮らすなら別に家があるほうがいいだろうとおっしゃったから。なのに、仁は誰も選ぶことはなかった。みんなが家を訪ねても、誰ひとり家の中へ入ることはできなかった」
 途中、仁が莫迦莫迦しいと部屋を出ていった。
「厳密に云えば、都宮詩が最初に入れてもらったんですってね。でも、それは花穂がいたせいだわ。仁は、あなただけを特別にしたの。自信を持ってね、誰に何を云われても。仁が選んだのは貴女だということを忘れないで」
 私は驚いていた。
 毎日、代わる代わるやってくる女たち。
 確かに、誰も家の中にまで入ってくることはない、あの都宮詩を除いては。
 だからこそ、都宮詩だけは別だと思った。
 彼女こそが特別だと思っていた。
 都宮詩だけは、仁がいてもいなくても家に入ってくる。
「ちゃんと式を挙げたら? 皆も諦めがつくというものよ」
 私の気持ちを知ってか知らずか、あっさりと云われた。
「いえ、私は今のままで充分です。えっと濃姫・・様?」
「帰蝶でいいわ」
「帰蝶様。有難うございました。仁のこと、やっと分かった気がします。私のこと、きっと放っておけなかったんでしょうね。もしかしたら自分の姿を重ねたのかもしれません。だからこそ、都宮詩さんこそが特別だと思います。私がいなければ、とっくに一緒になった気がします」
 すると、帰蝶が豪快に笑った。
 何?
「何を云う。都宮詩は人妻、子供もおるわ」

 そんな莫迦な、と思った。
 彼女は、仁の恋人ではなかったの?
 では、いつも私の世話をしに来るのは何故。
 お米や野菜を運んでくるのは、何のため?
 子供がいる?
 そんな素振り、見せたこともない。
 そんなことができるのだろうか。
 何より、仁が都宮詩を受け入れている。

「ここを出ると、隣に大きな屋敷があるでしょう。このあたりの地主のような男の家。都宮詩は八年前、その男の許へ嫁いでいる」
 言葉を完全に失った私の替わりに、戻ってきた仁が云った。
「先妻の男の子が一人と、都宮詩は娘をふたり産んでるよ」
「ほんとに?」
 仁は眉を少し動かすことで、本当だと肯定した。

「仁。お前は言葉が足りぬ。未来とやらの男は、皆そうなの? 好いているなら、自分のものにすればいいのに」
 帰蝶は、少しだけ表情を曇らせて話す。
 仁の運んだ冷たいお茶を一気に飲み干すと、おいし、と少しだけ笑った。
「この時代とは違う。未来の女は十五歳では嫁がない。嫁ぐという意味だけなら、三十歳でも未婚は大勢いるんだ」
 仁のその言葉に、帰蝶は心底驚いていた。
 確かにそうだろうな。
 武家の女は政略結婚の道具。人ですらない。
 自身、政略の道具として父親に出されたんだから。そんな時代の彼女が、未来を想像するなんて不可能だろう。

「ところで文長様は、如何しておられる?」
「今は患者もなくて、薬草挽いてますよ」
 帰蝶はそれを聞くと、そそくさと部屋を出ていった。
 あれ、何だか変な感じ。
 帰蝶は、信長の正妻でしょ。此処に何しに来てるの・・。
 あ、あの包み。頼まれたってこと。
 帰蝶を、使い走りに使う仁って、やっぱ凄いよね。

 仁。
 胸の中で呼んでみる。
 仁。貴方と都宮詩は、どんな関係なの?
 でも、それを聞くことは私にはできない。永遠にできない。だからといって今更仁の許を離れて暮らすなんて、もっとできない。
 私は、迷惑な存在だろうか。
 ううん、それよりも・・。
 私は、仁の許にいる資格がないかもしれない。

 仁・・。
 私を拾って後悔してる?

「帰蝶が何を云ったのか、見当はつく。気にするなよ。花穂ちゃんは今まで通り、自然体のままでいいから」
 ね、という仁の言葉と笑顔が、初めて苦しいと感じた。

著作:紫草

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