月にひとつの物語
『文月』(紫草版)

「どうして短冊を下げないの?」
「だって叶う夢なんて、ないんだもん」
 一本の笹竹を前に、私はこう答えるしかなかった。当時、小学校四年生の七夕のことだった――。

 何とかって有名な竹林から、毎年送られる一本の笹竹。
 それを七夕前の一週間、玄関先に飾るのが我が家の習慣だった。
 いつから始まったのかは分からない。
 でも私が物心ついた時、笹はもう届いていた。

 小学校の低学年くらいまでは短冊を書いた。母に言われて、色とりどりの短冊を渡されて、お願いしたいことを書きなさいと言われたっけ。
 ただ、ある時気付いてしまった。本当に願って書いた短冊は、下げられないということに。

 中学三年の六月。短冊を渡されることもなくなった頃、帰宅したら玄関先で母が倒れていた。
『ごめんね。あいちゃん。ありがと』
 それが最期の言葉だった。奇しくもその年の七月用の笹が届いた日だった。
 その日から私は、父子家庭の子になった。
 隣町に住む祖母が我が者顔でやってくるようになり、何かにつけて干渉してくるようになり、私は少し心の病気になってしまった。祖母はいろいろ文句のようなことを言ったけれど、結局は父が少し離れて暮らそうと言い出した。
 そして私は高校から、母の実家へ引き取られることになった――。

 そのまま母の実家、祖父母の下で暮らし今年、私は大学二年になる。
「おねえちゃん」
 駅前のドーナツ屋さんでのバイトへ行こうと歩いていると、すぐ後ろから声がする。
 反射的に振り返ってしまったのは、その声が明らに子供のものだったから。そして振り返って更に驚く。その子の手には少し大きめの笹飾りがあったから。
「たんざくに、おねがいごとを、かいてください」
 その子は近所にある保育園のスモックを着ていた。男の子用の小さなセーラーカラー、水色のAラインの半袖スモックだ。
「えっと。きょう、たなばたさんのおゆうぎかいが、あります。みにきてください」
 小さな両手で笹を持ち、一生懸命話している感じ。
「どうして私を誘うの?」
 聞いてしまうと、この子を傷つけるかもと思ったけれど、やっぱり聞いてしまった。
 すると即答される。パパがお願いしようと言ったのだと。

 私は辺りを見回し、少し先の路地によく知る顔を見つけた。まさか、と思いながらも聞いてみる。
「あの人がパパ?」
「うん」
 彼のこれまた即答に、(うそ〜)と心の中で思い切り叫んでいた。
 その人は、毎年うちの笹飾りを見にきていた人だった――。

『楽しくなさそうに飾ってる』
 そう言って笑われたのが、最初だった。
 父に言われ、手伝うようになった笹の飾り付け。自慢のわりに、父は自分ではやったことはない。毎年、七月一日に帰宅すると飾ってある笹を満足気に見てるだけ。
 そんな笹飾りを心待ちにしていると言われ、私は心底驚いた。それが田村大作と名乗った、一年上の当時小学生の彼だった。
 彼は、私が気付いたことを確認すると近付いてきて、男の子の隣に立つ。
「バツイチにもなってないのに、子持ちなんだ」
 そう冗談なんだか、本気なんだか、よく分からないことを言う。少し照れたように頭をかく仕草は、小さな頃の面影を残していた。
 そういえば、母の通夜に姿を見た気がする。あの時は声をかけることもできなかったけど。

「私、そういう話、好きじゃない」
 一瞬、驚いたような表情を見せた彼に、私は父の話をした。
 父は母の三回忌を済ませると再婚し、父の生々しい恋愛を見せられて以来、私は家に行ってない。たぶん、二度と行くことはないんじゃないかと思う。だから、バツイチだとか子供だとかの話は私には禁句だった。

「でも俺、憶えてるよ。ピンクの短冊に大きくなったらお嫁さんになりたいって書いてあったこと」
 私は自分でも忘れていたその言葉に、驚いた。
 どうしてそんな小さな頃のことまで憶えているのだろう。
「俺、その笹飾りをする子が好きだったから」
 そう言って彼は再び照れている…。

「おねがいしたいことを、かいてください」
 ふと訪れた沈黙に、小さな彼が短冊を差し出した。
「あいちゃんが、こっちの町に越してから、あの家に笹飾りが出されることはなくなった」
 私はその小さな手から短冊を受け取るために、手を出した。すると彼が頭の上から、そんなことを言う。

 そうなんだ。
 もう飾ってないんだ。
 父と、くす玉を手作りする祖母の自慢だった笹飾り――。

「知らなかった?」
 私は黙って頷いた。
 あの家に居場所はない。私は思い切るように頭を振ると、彼に向かって聞いてみる。
「この子、本当に田村さんの子供なの?」
「戸籍上はね。本当は姉貴の子供。再婚する時に連れていけないからっておいてった。だから正しくは甥っ子。うち、母親いなくてさ、親父が万が一を考えて俺の養子にしろって」
 そうなんだ。
「凄い話ね。兄弟になった方が自然じゃない?」

 余計なことを。そんな風に思いつつも、言葉は唇を離れた後だった。
 何だか無茶苦茶な話のようにも聞こえるけれど、田村さん本人がそれでいいと思っているならいいだろうに。
「持病があってさ。俺の親父って、いつ死んでも不思議じゃないから。もし姉貴の嫁ぎ先から文句言われた時に、こいつが路頭に迷わないようにね。仕方ない。近いうち、二人家族になるのは決まってるから。だったら父親の方がいいだろ。絶対、育ててやるって覚悟できるから」
 その真摯な言葉と真剣な眼差しは、私の胸に確かに届いた。
「あ。でも、ちゃんと大学も通ってるし、戸籍が父親っていっても育ててるのは、まだ主に親父だから」
 そんな言い訳めいたことを一生懸命話してくれる。
「だから今の俺の夢は、好きな女の子が嫁さんになってくれること」
 思わず、息をのむ。
 何故、そんなことをここで言うの。

「おねえちゃん。これ、マジック。なにいろ、すき?」
 見ればアスファルトの地面に座り込み、保育園で使っているであろう12色の水性マーカーの箱を開いていた。
「ね。お名前は?」
「みいくん」
「みい君。パパは優しい?」
「うん。おじいちゃんもやさしいよ」
 満面の笑顔で答える彼から、私は青いペンを受け取った。
『人のために気持ちを割いて、生きている人と一緒にいたい』

 今年の七夕は晴れるらしい。織姫と彦星は天の川を渡り、逢瀬を楽しむことだろう。
 二枚の短冊がさがる、笹竹。
 みい君の幼い文字は、『ひこうきのうんてんしゅさんになりたいです』と書いてある。
 そこに私の書いた短冊を、田村さんは器用に下げている。こよりを結う彼の指は、とても綺麗に見えた。
「今夜、六時から七夕会があるんだ。よかったら、この先の愛育保育園に見に来てよ」

 返事は聞かれなかった。
 約束というには余りにも曖昧な、まるでお天気に左右される天の二人のような、あるのかないのか分からない約束の言葉を残し二人は去った。
 今夜。
 あの保育園に行かなければ、あの二人との接点は消える。そう思った時、初めて淋しいという気持ちが湧いた。

 駅前のドーナツ屋さん。二時から六時のシフトに入って帰りは六時十分頃。
 そのまま保育園に向かえば間に合うのだろうか。
 時刻は一時半。それを決めるのは今じゃない気がする。
 バイトが終わった時、自分の気持ちの趣くままに七夕の節句に身を委ねてみよう。私は差し当たってバイトの時間が迫っていることを優先させ、歩き出した。

 その顔に、無意識に浮かぶ笑み。自分自身がそれに気付くのは、バイト仲間の女子高生に何かいいことでもあったのか、と聞かれた時のこととなる――。
【了】

著作:紫草

「文月」(李緒版) 月にひとつの物語-contents
inserted by FC2 system