月にひとつの物語
『水無月』(紫草版)

 駅へと向かう通り道。すれ違って行った女性に、甘い匂いを嗅いだ。
(お腹に赤ちゃんがいるせいだわ)
 そう考えて、自分のお腹にも掌を当てる。そこに息づく命。魂を分けあっているような、感覚。
(あの人、幸せそうだった。もうかなり大きくなっていたお腹)
 駅に向かいながら、ふと足を止め再び彼女の背を追おうと振り返る。

 !

 刹那。目が合った。
(何故。どうして。こんなに離れてしまっているのに)
 でも、その女性もまた振り返り、こちらを見ていた。世にも恐ろしい形相で、鬼のような面相で、そして私を見ている。
 彼女の視線から逃れたくて、駅の改札を急いで通り抜けた。
(あの人が私を見る必要などないのに。あの人が、私を知る筈などないのに)

 彼とはもう二年の付き合いになる。ただ、あの人には秘密があった。
 彼は、自分が既婚者であることを私に隠した。そして今も隠し通せている、と信じている。
 だから私も知らない振りをする。気付いていない演技をする。
 私たちは結婚を約束した恋人同士であり、まだその時じゃないからと来たるべき時を待っているだけ。
 …待っている、何を!?
 彼は言った、結婚したいと。
 でも、結婚しようとは言わなかった。
 私たちの関係は、不倫以外の何物でもなかった。

 彼は嘘をついてはいない。私が勝手に勘違いしただけ。
 そう、自分に都合のいいように――。
 いつか、を待ちたいと思った。ただ、それだけ。
 でも彼の口からは何一つ、プライベートな話が語られたことはなかった。
 だから私も告げなかった、赤ちゃんができたことを。

『駅のホームに立つ時は、最前列に立ってはいけないよ』
 先日訪れた産婦人科に夫婦で来ていた男性が、そう話していた。妊娠中の女性は立ちくらみや貧血が多いらしい。万が一、線路に落ちるようなことがあったら大変だからと。
 突然、その会話が甦ったのは本能的な危険を察知したからだったのかもしれない。
 後ろに下がろうと振り向いた場所に、あの女性――彼の奥さんが立っていた。
 そして突き飛ばされる。
 ゆっくりと落ちてゆく感覚。
(ごめんなさい。貴女を苦しめるつもりはないの。何も知らなかったの)
 咄嗟に、庇おうとお腹に廻した腕を引き寄せられ、ホームぎりぎりに蹲った。

「大丈夫か」
 その声に驚いて顔を上げた。
「三枝さん」
「悪かった。修羅場が三つも重なっちまった」
 何の話だろう。彼は、どうして此処に現れたのだろう。修羅場ってなんだろう。

 私は、彼のその言葉の意味を、考えることを放棄した。心臓の高鳴りも周囲の喧騒も、全て自分の中から排除してそして優しく語り掛ける。
(赤ちゃん。もう怖くないよ)
 うん、大丈夫。お腹痛くない。
 お腹を庇うように座っていると、抱き締められ立たされた。

「警察の人が話を聞きたいって」
 その言葉に黙って付いて行くしかない。
(あの人は、どうなったのだろう)
 そんなことが頭をちらりとよぎる。私は、鉄道警察の人に嘘をついた。立ちくらみがしたのだと。
 でも見ていた人が多過ぎた。結局、私の話は嘘だとばれて、彼女は最寄の警察に連れて行かれたと聞かされた。

 私と三枝さんはその場で放免されたけれど、また話を聞くかもしれないとだけ告げられた。
 そのまま電車を乗り継ぎ、自宅の最寄り駅に着いたのに彼の手が降車を止める。
(どうして降りないんだろう)
 でも、それを問う勇気はなかった。いくつかの駅を通過して、漸く彼が一つの駅に降り立った。何も言わないまま手を引かれ、彼に従う。辿り着いたのは、私の通う産婦人科医院だった。
「診察してもらおう。後で何かあってからでは遅いから」
「どうして」
「知ってたよ。だから急いだ。離婚も、君との結婚も」
「嘘」
「嘘じゃない。三年どころか、五年以上別居してるんだ。本当ならすぐにだって離婚できた。ただあいつの母親の病気が発覚した。闘病は思ったよりも長くて、図らずも離婚が遅れる結果となった。その母も先月逝ったよ。あいつの腹の子が俺の子だと信じたままね」
 彼は私から診察券を受け取ると、受付の看護師に事情を説明しにいった――。

 何がどうなっているのか、まだよく分かってない。
 私は初めて彼女に遇った、彼の奥さんに。写真で知るだけの私を何故知っていたの。
 いえ、それより何故、この男は全てを知っているというのだろう。
 自宅に戻った私はベッドに寝かされ、彼はそのベッドに寄りかかっている。

「なぁ」
「何」
「お前、どうして今日、あそににいたの?」
 あぁ、そんなこと。
「簡単よ。習っている茶道のお師匠さんが、お茶会を開いたの。私も呼ばれた。だから初めて貴男の住む街へ行くことになった。まさか奥さんに遇うとは思わなかったけれどね」
 私がそう言うと、奥さんじゃないよとぼそりと呟いた後、
「やっぱ、お前も知ってたよな」
 と頭をかいた。
 そこで初めて聞かされた、彼の複雑な結婚事情。
 奥さんのお腹の子は、三枝さんには一切関係のない子として産まれてくるのだそうだ。
 彼女はいつ私のことを知ったのだろう。
 そして彼はいつ、私の妊娠を知ったのだろう。
 でも、もういい。全てを清算し、私との婚姻届を出してくれた。赤ちゃんのことも全部手続きをしてくれた。
 この子には、もうちゃんとしたパパがいる。

 茶会があったのは、運命だったのだろうか。
『水無月ですからね。水に縁のある月に、引きましょう』
 そう言ってあっさり引退されるお師匠さんに、新しい水差しを贈った。
「全てを水に流して、新しい人生を頑張れって言ってくれたのかもな」
 そう言って振り返った彼の顔は、私の知る笑顔の中で一番輝きに溢れていた。
【了】

著作:紫草
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