月にひとつの物語
『皐月』(李緒版)

 江戸の頃、月琴という月を模したまん丸の琵琶のような楽器が中国から伝わり、幕末から明治の頃に流行りました。


 和尚さんにお願いしたい物というのが、これでしてね。
 えぇ、見ての通り、月琴です。随分古い物でしょう。
 和尚さんがこの寺に来たのは…? あぁ、30年も前になりますか。ちょうど黒船がやって来て世間を騒がせていた頃。もうそんなに経つんでございますねぇ。
 私が、呉服を扱う山代屋へ後妻に入ったのが37年前でして、和尚さんも噂くらいお聞きになったことがあるでござんしょう。
 私は吉原におりまして、先代に身請けされたんですよ。当時は、親戚連中や近所からも色々と言われましてねぇ。まぁ、文句を言われても仕方ありません。今ではもう、それを覚えている人たちも、主人も、みんな彼岸の人になってしまいましたけどねぇ。

 おやまぁ、年を取ると、話が横道にそれていけません。
 この月琴は、私の姉女郎の持ち物でして、彼女が亡くなった折りに、形見としてもらったものなんです。胸の病気でしてね、もう後はお決まりの最後ですよ。暗くて湿気の籠もった納戸へ押し込められて、食事もまともに与えられず、最期は血を吐いて亡くなりました。
 優しい人でしてね。元はお武家の出だとかで、病気になる前は、それなりに売れっ子で、月琴を引く珍しい遊女だというので、吉原再見にも載ったことがあるんですよ。
 私はかむろの頃から、可愛がってもらいましてね。でも、どうにかしたいと思ったところで、自分も同じ境遇。客が取ってくれた膳のものを残しておいて、そっと持っていったりもしたんですが、『おまえがお食べ。死に行く者にはなんにもいらないよ』と言うばかりでねぇ…。

 あぁ、ごめんなさい。年を取ると涙もろくなるなんて言いますけれど、なんだか最近、この姉女郎のことを思い出しては涙ぐんでしまうんです。
 この月琴は、遺言だったとかで私がいただいたんです。
 ところが私はとんと弾けませんで、といって手放すこともできず、ずっとしまい込んであったんです。
 でもねぇ、私ももうすぐ還暦。いつあちらからお呼びがかかるかわかりません。
 いいんですよ、お世辞なんて言わなくて。和尚さんもご存じの通り、先年跡継ぎの孫息子が生まれて、私の役目ももう終わりかと思いましてね。今は、隠居するための家を息子が作っていてくれまして。秋になる頃には移る予定なんです。
 それで、荷物の整理をしていたら、この月琴が出てきましてねぇ。吉原に通ずるのものは、処分したり隠したりしていましたから、日々の忙しさに取り紛れて、私自身忘れておりました。
 その晩、部屋へ飾っておきましたら、この月琴が鳴ったんでございますよ。えぇ、久々に外の空気を吸って、月琴も喜んでいたのでしょう。
 それで、このお寺に預けて、姉女郎ともども供養していただきたいと、こう思った次第なんでございます。
 姉女郎は、他の遊女たちと無縁仏に葬られてしまって、本当の名も知らないままなんですが、この月琴があれば、彼岸にいる彼女にもお経が届くんじゃないかと。
 どうぞお願いしますよ。せめて、彼女が向こうで苦しまずに済むように。
 あぁ、胸のつかえがおりました。忘れていたようで、ずっと心のどこかに残ってたんでございますねぇ。これで、安心して、隠居できますよ。
 おやまぁ、随分と長居をしてしまいました。息子が心配するといけないから、私は帰ります。なんですかねぇ、もうどちらが親か子か、わかりません。出掛けるときは、どこへ行くんだ、いつ帰ってくるんだと、うるさい位で。有り難いことですけどねぇ。
 え? こんな年寄りの話を聞いてくださいますか。ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、また寄せてもらいます。
 では、私はこれで…。
【完】

著作:李緒

月にひとつの物語-contents 「皐月」(紫草版)
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