月にひとつの物語
『皐月』(紫草版)

「なぁに、読んでんの!?」
 公園のベンチに座る私に向かい、彼は声をかけてくる。
「女王蜂」
 何の抑揚もなく本から視線を外すこともなく、私は答えた。何故答えてしまったんだろう、という気持ちすら抱く前に。すると彼は、明らかに平仮名だろうと思われる口調で、じょおおばち〜?と繰り返す。
 どうせね。今時、こんなの読んでるのは少ないとは思うけれどね。ほっといてよ。
 思わず、顔をあげた。
 そこで漸く、何故答えてしまったのかということに気付く。彼の言葉を完全に無視して、私は続きを読もうと視線を本に戻そうとした――。

 五月晴れの穏やかな日差しのなかで、私は彼に遇った。
 生物教師の急病で、突然午後の授業が自習になった。勿論、下校してしまえば早退扱い。それでも私はこの公園で、今日この本を読みたかった。

「ちょっと何すんの」
 手元から取り上げられた文庫のカバーを、彼が勝手に外している。
「制服着たままで、そんなに熱心に読んでるから。何か、ちょっと気になってさ」
 そんな風に彼は言い、
「やっぱ、横溝か」
 と呟いた。
 その言い方に少しだけ引っ掛かる。
「めっちゃ、イケメンそうなお兄さん。小説なんて読むの?」

 私は、その誰かも知らない男性に声をかけた。
 その辺のファッション雑誌から抜け出てきたような人。帽子を目深に被り、服もアクセサリーも、そしてその人そのものが本の中に在る人のよう。
 でも、その顔だけは長めの髪に隠されて、はっきりと見ることはできない。
「本は顔で読むわけじゃないっしょ、お嬢さん」
 まぁね。
「それに、この顔なのは俺のせいじゃないし」
 そう言いながら、古びた文庫をパラパラめくる。
「随分、年季入ってるね。中古で買ったの」
「小学生の時に、古本屋さんで買ったの。読むのは、もう二十回くらいかな。今年になって横溝作品は初めてだし」
 毎年、五月になると彼の本を読む。まとめて読む年もあれば、一冊しか読まない年もある。
 でも絶対に手にしたくなるのは、五月。
「横溝の誕生日が五月だから?」
「どうして、それ…」
「俺が横溝の誕生日知ってると変?」
 いや、そういうわけじゃないけれど。
 でも何て返したらいいのか、わからない。あまりにも似つかわしくないような気がして。
「返して下さい。もう帰ります」
 そう言うと、彼は微かに笑って本を返してくれた。
 その仕草が何だかとても寂しそうで。私は思わず声をかけてしまう。
「お天気がよかったら、また来ますか?」

 余程、予測していなかった言葉だったとみえる。立ち上がった私の顔を、その美しい眼差しが前髪越しに覗き込んでくる。
 何だか恥かしくなってしまって、私は気にしないで欲しいと立ち去ろうとした。
 刹那、腕を…後ろから右腕を掴まれた。

 どうしたというんだろう。
 私は掴まれた腕を振り解くこともせず、その綺麗な彼の顔を眺めてしまった。

「来る、必ず。お前に逢いに」
「うん。分かった」
 そして腕は離された。
 どうしよう。心臓がどきどきする。そう、まるで主人公の大道寺智子が様々な局面を乗り切っていったように、私も今、何かを乗り越えるのかもしれない。

「名前。お前の名前、聞いてもいいか」
 少しおどおどとしたような視線で、私の姿を追う彼。どこまでも綺麗な人。
「いいよ」
 ちょっとだけ笑って、そう答えた。
「怪しい男だと思って、智子とかって言うのだけはやめてくれな」
「えっ!?」
 智子って、もしかして…
「本当に読んでたんだ、女王蜂」
「俺も好きだもん、横溝」
 そう言って、帽子を取り右手でかき上げた髪の下から、よく知る芸能人の顔が現れた。

「あ!」
「内緒な。俺、本名教えるの禁止になってるから、誰にも言うなよ」
 そう言いながら、彼は耳元に唇を寄せる。
 聞こえたその名は、私のよく知る名ではなかった。
「私は、菘(すずな)さや。そこの高校の三年生」
「知ってる。俺、そこの卒業できなかった元在校生」
 その後、携帯持ってるかという問いに対し、持っていないと答えると苦笑いされ彼の番号だけを教えてもらった。

「必ず来るけど、いつとは約束はできない。だから気が向いた時だけでいいから。ここで待ってて。横溝読んで、俺を待ってて」
 何故だろう。
 その真摯な言葉に、遇ったばかりの人だというのに私は頷いていた。
「きっと待ってる。毎年五月二十四日は必ずいるよ。もう何年も通ってる場所だから」
 彼は、その日にちを聞いてなる程と納得し、有難うという言葉と優しい手を残してくれた。まるで小さな子供にするように、私の頭をぐりぐりと撫で、そして片手を上げて去って行った――。

 あれから長い時が流れた。
 今も、女王蜂という本は大好き。
 彼に遇わせてくれた本だから。
 そして再び私が彼に逢った時、あの日から六年の歳月が経っていた。

 彼はすぐに私の姿を見つけると駈けてきて、こう聞いた。
『大道寺智子は多門連太郎に出逢っても、すぐに彼を受け入れることはなかった。さやは、どうして俺を受け入れたんだ』
 と。
 高校を卒業し、大学も卒業し、モデルから本格的な俳優になってゆく彼を、それでも私は遠くから見ていただけだった。
 ファンクラブが発足すると知っても入ることはなかった。ポスターを貼ることもない。きっと誰も私が彼を追っているなんて、知らないだろう。

 私は、答える。いつも思っていた、たった一言を。
『約束したから』
 手には、あの日と同じ女王蜂の本があった。
 彼は言う。
『どんなインタビューを受けようとも、ひとつだけ真実を貫いたことがある』
 と。
 うん、知ってる。それは、どの雑誌を読んでも必ず書いてあることだったから。
 でも私は、その言葉を彼の口から聞いてみたいと思った。
『好きな女の子のタイプは、横溝正史さんの女王蜂を公園のベンチで読んでるような子がいいな』

 再会した時、彼の手には私の薬指のための指環があった。
 あの物語のなかでは不幸を招いてしまった婚約がわりの指環。月琴の中に残されたそれを、かの名探偵が見つけることで物語は一気にクライマックスへと向かう。
 その同じ指環が、私にとっては彼との縁を結ぶ素敵な幸せの環となった――。
【了】

著作:紫草

参考文献:『女王蜂』著作:横溝正史氏 昭和48年10月20日初版発行 角川文庫刊


「皐月」(李緒版) 月にひとつの物語-contens
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