月にひとつの物語
『師走』(紫草版)

 何も見えない。
 真っ白な視界は、方向感覚を狂わせる。
 雪国を取材中に、俺はスタッフとはぐれた。それは何故か。
 何処からともなく聞こえてきていたその声に、いつしか引き寄せられるように雪の中を歩いた。

『助けて』
 と、確かに声がする。
 しかし何処まで行っても声は近くなることはなく、それでいて離れているような気もしない。

(彷徨っているのは、俺の方か)
 山の怖さは、ちゃんと分かっているのに。今日に限って、天候を気にしながらも山へ入ってしまった。スタッフは皆、無事に下山しただろうか。
 気温が上がっていた。
 否な予感はあった――。

 はらはらと静かに舞い落ちるだけでは物足らなかったらしい。雪は風を呼び、やがて吹雪となった。
 視界の殆んどを遮られ、唸る風に何も分からないと思うのに、あの声だけは耳に届く。
(いったい何処から聞こえてくるんだ)
 自分自身が遭難しかかっているのだ、という自覚もあった。
 それでも、あの声の主を捜さねばならないと心が逸る。

 逢いたい――

 いつしか気持ちが変わっていた。
 この声の持ち主に。
 この甘やかな声に誘われて、雪のなかに閉ざされようとも。
 それでも、逢いたいと思ってしまう。
 空を見上げると、雪が自分に向かって巻き込むように降ってくる気がする。
 全ての感覚はとうに失い、何かに突き動かされているのか、足だけが何処かへ行こうと歩みを進める。

 逢いたい――

 この想いは誰のものだ。
 そして、耳に届くこの声は本当に聞こえているものなのだろうか。それとも…。
 この異様な状況が生み出した、幻聴。それを認識できるほどには、まだ正気でいるのだと思う。
 次第に薄れてゆく意識のなかで、この雪の中、閉じ込められたら行きつく先は死だ。
 それでももう自分の意思ではどうにもならない。何処にも動くことができなくなると、遂に足が止まった。

『助けて』

 最后かもしれない、その声を聞きながら俺は雪の中に倒れこんでいった――。

 ふと明るさを瞼の裏に感じた。
 ここは何処だろう。
 雪の中で彷徨って、そして…!!

 飛び起きようとして、失敗した。
 頭が重い。
 ただ動こうとしたことで、誰かがそれに気付いた。

「気付かれましたか」
 声のする方を見ると、看護師が中年の女性と共に立っていた。
 返事をしたかったが、声が出なかったので可能な限り頷いてみる。
「有難うございました」
 そう言って女性が頭を下げている。

 何がだろう。
 遭難しかかったんだ。礼を言うなら、助けてもらった俺の方じゃないのか。
 すると彼女は、隣との仕切り用カーテンを引く。

 息をのむ美しさ。
 頭に浮かんだのは、そんな童話に出てくるお姫さんを形容するような言葉だった。
 そこには静かに横たわる女性が眠っていた。
「娘です。雪崩に巻き込まれて捜していました。貴男が娘を捜し出してくれたんですね。本当に有難うございました」

 否、それは違うと思った。
 ゆっくりと体を起こす。先程と違い、筋肉を一つずつ動かすように起き上がった。
「俺の方が助けてもらいました。彼女の声が、ずっと聞こえていたように感じた。だから一目逢いたいという一心が、俺を支えてくれました」
 そこで視線を母親だという女性に向ける。
「ありがとうございました」
 その時、微かな声が聞こえた。
 吹雪のなかでも鮮明に聞こえた、あの声。

 本能的に振り返った。
「漸く逢えた」
 そう言って微笑んでいる。お姫さんのようなと思った彼女は、想像通り瞳の大きな美しい女性だった。
「こんな美人さんだったんだ」
「そっちこそ、女の人みたいに綺麗な顔してる」
 彼女のその言葉に、女顔だからなと笑った。

 雪崩に遭った彼女の声が、何故聞こえたのかは分からない。それは科学的には証明は不可能だ。
 でも俺は彼女の声で生かされ、そして俺の携帯GPSが彼女と俺を救った。
 幸いなことに、あの雪崩と遭難は一人の犠牲者も出さなかった。

 あれから一年。
 雪の中で出遭った俺たちは、今も逢い続けている――。
【了】

著作:紫草
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