〜月の宮の伝説〜

藤の棚

 それは見事な藤の咲く頃、月は満ちていないのに、やけに明るく照らし出された夜のことだった。近所にある藤の棚が盛りに入ったことを聞きつけて、夜の散歩と洒落てみた。

 禍々しいまでに美しい女が、藤の下に佇んでいた。
 でも、女の顔をよく見ると、
(何だ、お隣の魔木子さんだ)
 と思った。こんな処で何をしているのか、と尋ねようと思ったが、声をかけるのが躊躇われて、藤の花と一対に見える彼女をただ黙って眺めていた。その時の彼女を表現すると‥、
『花闇に魔物がひとり』
 いつも不思議に思っていた彼女を、こんな形でじっくりと観察できるとは、つい先刻まで思ってもみなかった。白い長袖のTシャツに、これもまた白の長いふわふわしたスカートを穿いていた。長い髪は腰まで届き、色白のその顔は魅惑的に見えた。

(何て綺麗なんだろう‥)
 ずっとそう思っていた。
 でも、今日はまた格別だった。もう少し近づこう、と足を踏み出すと急に彼女が振り返り、思わずその場に立ち尽くした。
「あら、英則君じゃないの」
 彼女は、俺を見つけた───。
「こんばんは。貴女もお散歩ですか?」
 俺は、改めて彼女に近づいた。
「今夜は月明かりがとても綺麗だったから、何となく外にいたくて」
 彼女は、枝垂れた藤をもてあそびながら話した。相変わらず不思議な人だ。御伽話にある、あのかぐや姫のように、月の光に映えている。

 彼女は俺の家の隣に住んでいる。彼女がどういう仕事をしているのかは知らないが、昼間は家にいるようだ。俺が、まだ小学校に入りたての頃越してきて、ずっと一人で暮らしてた。その俺が今年高校三年だから、かれこれ十年は経つわけだ。
 でも、二十歳くらいに見えた初めから、今日まで全く変わらない。年を取ることを忘れたように、時間の経過を拒んだように、彼女は、ずっと変わらない。

「英則君、好きな女の子いる?」
 すると、彼女は突然振り返り、とんでもないことを口にした。驚いたけれど、ここは男らしく正直になろう、と心に決めた。
「いますよ。それはね、貴女だ」
 まぁ、と彼女は驚いた。そして少しはにかんで、こう云って笑った。
「そう、私のこと好きなの。大丈夫かなぁ、私ね、魔女なの」
 楽しそうだった。そして、藤の下でくるくると回った。
 それにしても、云うに事欠いて“魔女”だって、俺のこと子供扱いしてさ、ひどいよ。
「俺は一人前の男だよ。莫迦にするにも程がある」
「ごめん、ごめん」
 彼女はふわりと近づいて、俺の手を取った。
「ねぇ、キスしようか」
 ───俺は答えを出す前に、ファーストキスを奪われた。
「魔木子さん‥」
「私のこと、好きって云ったじゃない。あれ嘘だったの?」
 彼女は少しふくれて、背を向けた。俺の心臓は早鐘のように鳴り続け、手にはじっとりと汗をかき、何か、とんでもないことを口走りそうな気がしてた。
「いや‥あの‥」
「英則君、私と一緒に行こうか?」
「何処へ?!」
「いいとこ」
 その時、俺はどうかしてた。彼女に手を取られ、ふわふわと飛ぶように走り出した。

 そして、不思議野が原へと彷徨いこんだのである───。

著作:紫草

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