〜京極〜
今、何て言ったの。
京極ゆみ乃は、父から出た言葉を正確に理解できなかったように思った。
「高倉と結婚するかって言ったんだ。いいぞ〜、こいつなら喜んで嫁にやる」
そう言うと、父は高倉竜平の背を目一杯広げた掌でパンッと叩いた――。
ゆみ乃、高校一年の冬が最初だった。
高倉竜平は、父の経営する会社で父の特別秘書として働く男である。どういうつもりか、父はことあるごとに彼と結婚するかと聞き続けている。
でもそんなことを簡単に言える立場でもなければ、できる筈もないことを誰よりも分かっている。何故なら自分は京極という名の、血筋に生きる者だから。
ゆみ乃は父が初めてこの男を連れて来た日のことを、今でもはっきりと憶えている。
まだ高校生に入学したばかりで、突然やって来た大人の男に初めて恋心を覚えた。
でもどちらかといえば人見知りのゆみ乃は、声をかけることもままならず、父の話に時折頷くその男をただ眺めていたのだった。
あれから五年。
大学生になっていたゆみ乃は、久し振りに父からの誘いを受けた。
父所有のクルーザーを最后に海に出してやるという。何でも維持費がかかり過ぎるということで、最近では使うことも少なくなったこともあり、大好きな船を手離すのだと。
冬は父の好きな季節だ。だからこそ、最后のクルージングに冬の海を選んだのだろうか。
一足先に出た父と、ゆみ乃は一人で合流するのだと思っていた。
ところが、そろそろ出かける時間だろうかと思っていると、玄関のベルが鳴る。
現れたのは、高倉竜平だった。
「お迎えにあがりました。マリーナまでお連れします」
いつもは背広にネクタイという姿である。現れた彼のTシャツにロングジャケット、濃紺のデニムという出で立ちは、いつもよりずっと若く見える。
みゆ乃は彼に礼を言い、どうせ父の思惑だろうとさっさと車に乗り込んだ。
海までのドライブは、彼の選んだCDのなかだった。
途中、コンビニに寄るとペットボトルを渡され、トイレはいいですかと訊ねられた。
到着時間を考慮して、止めてくれたのだと分かる。
でも、それを言う人ではなかった。ゆみ乃は、単純に車から降りたくなった。
後部座席から見る彼は運転だけに集中している。まるでゆみ乃には興味などないかのように。いいえ。存在そのものを忘れられているかのように、無視されている。
息苦しい。
たとえ父の命令とはいえ、嫌なら断わればいいのに、と思う。
「そんなこと、できないか」
小さな呟きは、誰にも届かない。
トイレを借りて、店主にお礼を言いながら目の前で温められている缶コーヒーを一本取った。竜平のために買う缶コーヒー。
冬の海は寒いよね、きっと。
自分でも寒くなるほどの文章だ。
でも他に浮かばない。十歳違いの彼とは何もかもが違いすぎて、普通に話すこともままならない。
車に戻ってきて、外に立って待っている彼を見た。
「どうして…」
車の中で待ってればいいのに。
こんな時、無性に悲しくなる。休日でも、父の命令ならば仕事なのだということを思い知らされる。
何だか帰りたくなってきた。
「行かなきゃ駄目かな」
車のドアを開けながら、彼に言う。
一瞬、目元に動きが見えたけれど、すぐにそれは消え運転席に座る。
「では送ります。自宅でいいですか」
簡単だ。
社長の娘の一言が、こんなに辛いと思わなかった。
「やっぱり行きます。お父さん、待ってるから」
今度は返事もなかった。
車は再び、海へと向かい動き出した。
馬鹿なことを言わなきゃよかった。
気まずさは更に増し、思わず瞳が潤んだ。
慌てて、手の甲で拭う。大した化粧もしていないから、アイメイクが崩れて狸になる心配もない。
竜平とのドライブだと、単純に楽しめればどんなによかったか。
流れる景色をただ目で追いながら、時々落ちる涙を拭った。
それでも、きっと自分はこの人が好きなんだろうと思う。
どんなに子供扱いされていても、社長の娘だから付き合ってくれているのだとしても、一緒にいる空間は嬉しいと思ってしまう程には。
ひとつだけはっきりしてることがある。竜平は、ゆみ乃を嫌っているということ。
そして何があっても、ゆみ乃を女として見ることはないだろうということ。
小さな恋を終わらせてしまいたくて、自分の気持ちに毒を飲ませたかった。
誰でもいい。明日になったら、誰かにつきあってもらおう。竜平でない誰かなら、もう誰でもよかった。
ところが海から帰った翌日、ゆみ乃は高熱を出して倒れた。
邪まなことを考えて罰があたったのかと思う程、辛かった。
母のいないゆみ乃は、小さな頃から具合が悪くてもいつも一人で寝て治した。
すでに大人になった身だ。熱が出ていることさえ、ここ何年も父に悟られることなく治してきた。
なのに、どうしてだろう。
今回は体がいうことをきかない。無理をすることさえ出来ない。気力が役に立たない。
三日目。
漸く気付いた父が、顔を見にやってきた。
「風邪か。いつからだ」
口を開くのも辛くて、布団から指三本だけ出して瞬きをする。
とりあえず言いたかったことは伝わったらしい。父も顔を見て納得したのだろう。
後でまた来る、と残して出ていった。
何かを考えることを放棄していた。
只管、眠る。
夢か、うつつか。枕元に誰かが立っていると感じても、瞼は重く開けることは叶わなかった――。
そんな、うなされるゆみ乃の額に高倉竜平は手を置いた。
熱い。
体が燃えているようだ。
社長の言い草に少しだけ腹を立て、彼女の額に濡らしたタオルを置く。
あの日、すでに体調が悪かったのだろうか。
竜平は、眉間に少しだけ皺を寄せ、彼女を見つめる。
「ゆみ乃」
いつも我慢ばかりしている子だった。
竜平が初めて、この屋敷に連れてこられた時も父親の背中に隠れるようにして自分を見ていた。
二度目に会ったのは、それから数ヵ月後。
ゆみ乃は学校の友だちの買い物に付き合っていると言ったが、どう見てもタカられているようにしか見えなかった。さりげなくそれを伝えると、
『それくらいしか私の存在意義はないから』
と、力なく笑った。
刹那、竜平は胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
まだ高校生になったばかりの女の子だ。なのに、その理由はなんだろう。
聞けば、母親を亡くしたのは小学校に上がる前だったとか。社長は、何故再婚しなかったんだろう。たとえ義理でも母親がいれば、ゆみ乃の境遇ももう少し違ったものになったかもしれない。
少なくとも三日も熱を出したまま、放っておかれることはないだろう。
思わず、ゆみ乃の唇を指でなぞる。
そう、まるで紅を刷くように。
初めて見た時に恋をした、と言ったら、彼女は信じてくれるだろうか。
社長の言いつけで、彼女を連れて歩くことが楽しかった。年の離れた自分と、ゆみ乃がどんな風に見られているか。考えないではない。
それでも良かった。
いつか彼女に恋人ができるまでの、束の間の擬似恋愛のような時間を貰えたらいいと、そう思っていた。
なのに、ゆみ乃はいつまで経っても恋人どころか、男友達の一人も自宅に招いたことはない。
「お前、残酷だよ。とっとと恋人でも婚約者でも、連れてきて紹介してくれたらいいのに」
うなされて届かない恨みを口にする。
聞こえている筈はないのに、刹那、ゆみ乃の微かに口元が緩む。
「もうすぐ中川先生が往診してくれるから、頑張れ」
掛かりつけの医師の名を出し言葉をかけると、今度は嫌そうに眉間に皺を寄せる。
まるで聞こえているようだと、呼びかけてみた。
しかし反応はない。
暫くして中川医師の到着を知らせるチャイムがなり、竜平は迎えに出る。戻るとゆみ乃は起きていた。
驚いた竜平が医師の方を見ると、それでもやっぱり、ゆみ乃は高熱でうなされているのだと告げた。
では今のこの状態は何だろう。
診察をするからと、部屋を出された竜平には、ゆみ乃はちゃんと起きているようにしか見えなかった。