back
next

〜京極〜

『一族』3

「教えて下さい、社長が何と言ったかを」

 しかしどんなに待っても、ゆみ乃は口を開かなかった。仕方なく、こちらが折れてしまう。
「いつものように、俺と結婚しろと言われましたか」
 頷くだろうと思って告げた言葉に、ゆみ乃は否定の意味をこめ一度だけ首を振る。
 今度動揺したのは竜平の方だった。
「じゃ、何を言われたんだ」
 それでも彼女は何も言わなかった。

 見通しのきかない、予想のつかないことは苦手だ。
 社長は何を残していったんだ。
 この状態で一週間か。キツイな。
 そんな心情は顔に浮かんでしまったらしい。
「帰って下さい。この病院は完全看護です。高倉さんは必要ありません」

 暫し、見つめ合う形になった。
 いつもなら、はにかんでしまって絶対に竜平の顔など見ないのに、今は真正面から睨むように見られている。
「俺を帰したいなら、社長が何を言ったのか教えて下さい。でなければ、一週間待つだけです」
 その時、竜平の胸を過ぎったもの。それは朦朧とした意識の下で告げられた、そばにいて欲しいと言った時のゆみ乃の声。
 そして今、困ったような顔を見せるゆみ乃。
 よく見れば、まだ潤んだ瞳をしている。呼吸も浅い。
「もう寝ろ。そばにいてやるから」
 刹那、張り詰めていた空気が緩んだ。
 ベッドのリクライニングを水平に戻し、額に冷やしたタオルを乗せる。
「おやすみ」
「おやすみ、なさい」
 潤む瞳は涙を浮かべているようだ。
 思わず唇を寄せる。
 驚いたゆみ乃の方が少しだけ顔をそむけ、竜平の唇は半分だけ彼女の唇に触れた。
 動揺を隠し、改めておやすみと告げると、ゆみ乃は漸く目を閉じた。

 ゆみ乃からは、すぐに寝息が聞こえてきた。
 社長の言ったことは本当かもしれないと、思った。
「俺の前だと平気で寝るよな。男だと思われてないのかもな」
 自嘲気味に言って、竜平もまたソファベッドに横になる。
 明確にキスしようと思ったわけじゃない。ただ愛しいという感情が暴走した。それを朦朧としながらも、ゆみ乃は正確に見切り避けられた。
 自分で思っていた以上の辛さが込み上げてくる。
「結構、本気で好きだったのに」
 今更言っても遅いけど。
 何故なら竜平は、近いうちに会社を去ることを考えていたから――。

 翌朝、検温の為に扉を開けた看護師の気配で、ゆみ乃は目が覚めた。
 看護師は体温計を耳に入れ検温すると、必要なことだけ聞いて出ていった。
 今日もまだ体温は高いそうだ。
 足元を見ると、竜平が毛布に包まって眠っているのが見えた。
 幸せすぎて涙が浮かぶ。
 こんな朝なら、ずっと入院しててもいいかも。
 ゆみ乃の顔に笑みが浮かぶ。

 でも、それは夢。叶うことのない夢。儚い夢…
 昨夜、父から聞かされた、竜平の縁談の話。
 これが最后だと言われた。本当に竜平が好きなら、今真実の気持ちを言えと。もう今しか止められないのだとも。
 それでもゆみ乃は何も言わなかった。否、言えなかった。
(お父さん、私はね。彼に嫌われているのよ)

 父が、何故竜平を引き取ったかを初めて聞いた。
 京極グループの新規事業の為のビル建設を視察に行った時、どう見てもまだ子供に見える少年の鉄筋を担ぐ姿が目に飛び込んできたと。誰に何を言われることなく、黙々と働く姿は印象に残ったらしい。それが竜平だった。
 中の様子を見て戻ると、昼休憩の筈なのに竜平は一人働き続けていた。現場監督に聞くと、その日暮らしで昼を食べてしまうと暮らしていけないからだということだった。
 体格の割には力もあり仕事の飲み込みも早い。そのビル建設に関してはプロの作業員はちゃんと契約しているから、現場監督に言わせれば日雇いの作業員は彼のように子供の方が賃金も安く余程役に立つのだということだった。
「それでも、あくまで彼が早い列に並んでいないと雇ってやれないのだと現場監督も残念がっていた」
 仕事が終わって声をかけた。いい眼をしていたという。
「そのまま美味しいものを食べさせてやりたいと思った。そこで話を聞いて、学校に行かせてやりたいとも思った。どうせ京極の学校だ。試験に通らなければ追い返される」
 賭けだったよ、と父は笑った。
 竜平は、島へ行き特例の形の難度の高い編入試験にパスをした。その時、一生面倒見る気になった、と話す父は嬉しそうだった。
「俺じゃ、あの試験は絶対受からない」
 ただ養子という形ではなく、あくまで後見人として援助をしていた。それは京極というしがらみに巻き込みたくないと思ったからだという。
 だからこそ、ゆみ乃が竜平を想っていることを利用しようと思ったのだろうか。

 京極にとっての結婚は、政略的な意味があることを知っている。ゆみ乃も小さな頃を過ぎてしまえば夢を見ることもなく、いつかは父の決めた相手を養子に迎えると思っていた。
 それなのに…
 どうして父は、竜平との結婚を口にするのか。言えば言っただけ、嫌われてゆくというのに。
 一族系列の製薬会社の社長の一人娘。
 ゆみ乃が何かを言ってしまったら、竜平には逃げ場がない。
 彼の生い立ちを聞いた時、そう思った。
 ゆみ乃は竜平との愛情のない結婚をすることより、彼が自由に恋愛をしてくれることを選んだ。

 だから言えなかった、竜平に父からの言葉を。
 縁談なんか断わって欲しいという心の叫びが、いつ何のきっかけで飛び出してくるか分からなかったから。

 あの日。海に行った帰り道。
 会社に寄るという父を先に送り、竜平は食事に行こうと誘ってくれた。
 どんな畏まった所に連れて行かれるのかと、内心怯えていたら、着いたのはラーメン屋さんだった。
 いたのは年老いた男性が一人だけ。注文を聞き、調理をし、そして洗い物をする。
 カウンターには八席、奥にテーブル席が一つあるだけの小さなお店。
 竜平は常連らしく、注文を済ませると溜まっている洗い物をするために厨房に入っていった。
 向かい側で黙々と食器を洗う彼を見ながら、優しい人だと思った。
 きっと最初からそのつもりでこの席に座った。自分の姿は目の前にあるのに、話す必要のない場所。それは堂々と彼を見ていられる特等席。
 暫くしてラーメンが運ばれてきて、戻ってきた竜平と並んで食べた。今まで食べた、どんな豪華と呼ばれる料理よりも美味しかった。
 だから、もういいと思う。
 社長の娘の子守から、解放されるべき。
 ゆみ乃は一生、あの時食べたラーメンを忘れない。それだけで充分。

「もう起きたのか」
 そんな回想に耽っていたら彼が起きてきてしまって、狸寝入りをして誤魔化すこともできず素直に頷いた。
 そしてベッドのところまでやって来て、それが当たり前であるかのように額に手を乗せられる。
「まだ熱いな。何か欲しいもの、あるか」
 寝ぼけているのだろうか。
 いつもよりも会話が砕けている。
「喉が渇いた」
「昨日買ったのが残ったままだろ。ジュースと水と、あと烏龍茶だったかな」
「じゃ、烏龍茶」
 そう答えると、備え付けの冷蔵庫からペットボトルを出している。
 コップもあるのに、彼はそのままペットボトルのキャップを外し手渡してくる。
 うん、やっぱりまだ寝ぼけてる。
 礼を言い、竜平にも何か飲んだらと言うと彼は缶コーヒーを出してきた。
 彼が座ることでベッドが傾く。
 でもそれにも無頓着。何だか、嬉しい。
 寝起きの竜平は、実際の年齢よりもずっと若く見える。無精ひげがあって髪がぼさぼさで、何より眠そう。

「駄目だ。目が覚めない。顔洗ってくる」
「そこの洗面所使えばいいのに」
 今時、どの部屋にも洗面所はついているのに、竜平は部屋を出ようとする。
「外の空気吸いたいから」
 最后の言葉は、殆んど廊下から聞こえてきた。
 楽しい朝の時間は終わったのだと、ゆみ乃は悟った。

 昨夜、朦朧とした頭だったけれど、でも憶えていることが一つある。
 竜平とキスをした。
 正確には少し避けちゃったけど。
 でも自分にとっては、キスだった。
 彼は憶えてないだろうけれど、ゆみ乃はファーストキスも竜平だ。
 お正月の罰ゲーム。負けた、というか、父に勝たせたというか。
 それでも負けは負けということで、罰ゲームをすることになった。酔っぱらいばかりの男たちは自宅なのだから、ゆみ乃がいるという当たり前のことを忘れていた。
『次にリビングに入ってきたヤツにキスをすること』
 社長命令は絶対で、みんな興味本位だけで扉を凝視していたらしい。玄関には新たに年始に訪れた誰かの声が聞こえている。誰だ誰だ、と盛り上がっていたら、ゆみ乃が扉を開けて入ってきた。
 扉の真横にスタンバイ状態で待っていた竜平は、そのままゆみ乃を引き寄せてキスをした、勿論、唇に。
 更に盛り上がる予定だった男たちは、ゆみ乃に続き入ってきた専務の挨拶に姿勢を正すこととなり、いつしか竜平の罰ゲームの件は忘れられていった。
 ただ一人、ゆみ乃の心臓だけが、いつまでたっても破裂しそうなくらいバクバクしていた。

 初恋。
 そして現在進行形の恋。
 でも決して、成就されることはない。
 竜平が戻るまでは、まだ間があるだろう。ゆみ乃もベッドを抜け顔を洗うことにした。
 テーブルに置かれた白いビニール袋には、新品の歯ブラシや洗顔料、タオル、そして新しいパジャマが入っていた。
 どんな顔をして買ったのだろう。
 竜平が自分の為にしてくれることは多い。
 でも、まさかパジャマまで買ってきてくれるとは思わなかった。薄いピンクの花柄模様。これしかなかったのかもしれないが、手にした彼は見たかった、と思うゆみ乃だった。




著作:紫草






backshort-listnext



inserted by FC2 system