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『修羅界、その後』2

 京極愛介が菖と桔梗を招いたのは、二人が本土に渡ってくると聞いたからだ。
 島を出てまで二人が来るのは、葦朗と未央の話だろうと見当がつく。
「澪。俺、間違ってるか。このまま、二人には彼女を会わせるべきじゃないかな」
 少しだけ不安げに、澪に対し問いかける。
「いいと思うよ。特に菖は、いつかは知らなくちゃならないんでしょ。なら、今でいいじゃない」
 澪の答えは、いつもと同じ。分かり易いくらい簡単だ。

 あの日。
 あの事件のあった日。
 葦朗が、返り血に染まったまま、愛介の家を訪れた。
 そして未央、という澪そっくりの女の子を助けてくれと頼まれた。
 玄関先で、それだけを遺して力尽きた葦朗は未央という女の子を守るように息絶えた――。

 その懐に持っていた菖宛てだろうと思われる手紙に、これまでの詳細が書いてあった。
 そして目の前にいた澪そっくりの女の子が、双子の姉だということも。
『未央ちゃん。救急車呼ばないと』
 辛うじて、それだけ言った愛介に彼女は首を振り、
『呼ぶのなら警察を』
 澪とは全く違う、低めの落ち着いた声音でそう言った。その言葉で愛介は葦朗が、すでに死んでいることを知ったのだった。
 彼は未央を守るため、親の振り上げた刃の前に立ちはだかったのだそうだ。
 未央は聞いたことしか答えない。必要最小限以下の会話は、愛介を酷く疲弊させた。

 京極菖、藤村桔梗とは、病院に見舞いに来てくれて以来の再会だった。
 相変わらず一分の隙も見せない、張り詰めたものをまとっている。
 愛介は警察から戻された手紙を菖に渡し、彼は自分が読み終わると次に桔梗に渡した。
「あの女。どうせ死ぬなら一人で死ねよ。どうして葦朗を巻き込んだ」
 菖の言葉は棘だらけだ。
 愛介は、その言葉には返事をせず、二人に問いかけた。
「どうする。先に未央に会うか。それとも、会わないまま帰るか」
 菖は暫く俺の顔を睨むように見ていたが、会うよと告げた。
 愛介は席を立ち、奥の間に控える二人の“みを”を呼んだ。

 菖と桔梗が座る向かいのソファに、二人の“みを”が座った。愛介はそのどちらも見られる位置に陣取った。
「双子といっても瓜二つというわけではないんだな」
 菖の第一声は、そんな感想ともいうべきものだった。
 しかし誰が見ても、多分そっくりだと思う顔を見て、瓜二つでないと言い切った。

 その言葉に未央の方が興味を示した。
「貴男が当主。ならば世の中でできないことはないとか。ならば葦朗を返して、私のところに」
 その言葉に菖がうろたえたのが分かった。
「誰が、そんなことを言った」
 桔梗のその言葉に、未央が何だという顔をする。
「ママがいつも言っていた。当主になれば、この世にできないことなどないと」
 そう言ったところで、澪が未央の袖を引く。
 ここに来て数日。二人に会話らしい会話はない。
 ただ時折、澪は悲しそうに姉である未央を見つめる。すると彼女は、何を聞くことなく分かったと答えるのだった。
「以心伝心というわけじゃない。未央には他にどうすることもできないんだ。生きるためには、口を閉ざすだけだったのだろう」
 そう言ったのは愛介だった。
「未央。聞きたいことがあるなら、言いたいことがあるなら最後までちゃんと言え。その代わりお前も考えろ。俺はただの人間で、世の中出来ないことだらけだ」
 菖のその言葉に、未央はピクリと反応した。
「嘘…」
「嘘じゃない。現に、いにしえの郷を消し去りたいと思っても、そこで生きている者たちを思うと簡単にはいかない。鶴の一声で決まった時代は終わったんだ」

 その言葉を聞いた時の未央は、信じられないものを見るように菖を見た。
 世間を知らず、葦朗とその両親しか知らない世界で、盲目のように京極を思う母親に吹き込まれた言葉を否定する者はいなかったのかもしれない。
 しかし、もう葦朗はいない。
 そんな架空の世界など、何処にも在りはしないのだと菖は言い放った。
「葦朗は死んだんだ。生き返ることなんかない。お前もちゃんと確認した筈だ。警察を呼べと言ったのは、未央だったんだろう」
 菖は、一文字一文字、区切るように未央に語りかけた。
「生き返らない…」
「そうだ」

 その後、半狂乱となった未央の姿は、ただ憐れとしか映らなかった。
 ひとしきり暴れた未央は、泣き疲れたように眠ってしまった。葦朗が本当に生き返るとでも思っていたのだろうか、と言った桔梗の言葉に、誰も返事ができなかった。
 結局、未央は愛介の元で暮らすことになった。
 澪が近くにいることで、いつか葦朗が帰ってくるような気がするのだそうだ。
 葦朗が守りたかったのは、未央その人だけだったということか。
 亡霊のような名に振り回され、大人たちの犠牲になった者は多い。
 菖は、改めて一族に通達する。

 京極という名に縛られるな、と。
 若い者たちに一族を背負わせるな、と。
 そして自分の代で、京極はこれまでの役目を終えるのだと。

 その後、菖は本当に京極をただの旧家にしてしまった。
 名声轟く時代は終わり、現代を生きる逞しい当主の姿がそこに在る。
 平摩子という女性との結婚は、その最たるものだろう。
 桔梗の方が、由緒正しい十文字家の総領娘と縁を結ぶとは歴史の皮肉だろうか。

 愛介は、菖より託された京極の家禄に三人の女性の名を記した。
 一人は菖の細君。もう一人は、桔梗の細君。
 そして最后に、未央という名の澪の姉。
 澪は当初、自分が名を変えると言った。
 でも未央はそれを許さなかった。自分が家を出てゆくから、どちらもこのまま“みを”でいようと。

 本当なら引き止めるべきだったと思う。
 でも暫くは、気の向くまま好きなように生きればいいと愛介は思った。
 絶対に連絡を取り続けることを条件に、それと葦朗の供養には帰ってくることを約束させて未央は家を出ていった――。
 葦朗に引かれた手、今度は誰の手を取るのだろう。
 そんなふうに言ったら、澪は誰の手も取らないだろうと言う。
「それじゃ、寂しすぎないか」
 ううん。
「未央の世界は、今も葦朗と共に在ると思う。きっと未央にとっては、それが一番幸せなんだよ」
 そう言って、澪は自分の手を愛介のそれと重ねた。
「愛介。愛介は私の手、絶対離さないでね」
 握り返したその指を引き寄せて口付ける。
 もう京極一族の背負った闇に、囚われることはない。

 事件後、皆で出向いた葦朗の部屋。そこにあった窓に向かい、未央が言った。
『いつか、あの窓から幸せを運ぶ鳥が来るのだと信じていた』
 と。
 今も、あの窓はそんな鳥を待っている未央の視線の先に見えるのだろうと、菖が呟いた。

『未央と共に、隠れ住む』
 そう言った葦朗の言葉に、激昂した母親が許さないと未央に刃を向けたことも、その母親から奪った刃を再び未央に向けた父親に、葦朗が自分のナイフを振るったことも、父の刃を受けながらその父に止めを刺したことも、誰も知ることはない。
 ただ独り、この世に存在しなかった未央という人間を除いて――。
【了】

著作:紫草


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