『あきら]-B』

「こんにちは」
 少女は、明るく挨拶をする。
 私は声が出なかった。ただ無理矢理作る笑顔が、貼り付いたように固まった。
「こんにちは」
 そんな私に気付いたのか、子が代わりに声を掛ける。

 少女は納得したように、ニコっと笑って奥の暖簾をくぐっていった。

「ごめんなさい。私たち、そろそろお暇します。今日は有難う」
 何だか、頭の中が、めちゃくちゃだった。
 とにかく、此処にはいられない。そればかりを考えていた。
 この上、奥さんと顔なんか合わせた日には、私は、もう立っていられない。

「冬子さん、とにかく座ってよ。まだ何も話してないよ」
「もう充分。有難う」
「駄目だ! 同じ過ちはしない。ちゃんと話そう。ね」
 俊は、カウンターから出てきて私を無理矢理座らせる。子にも困った顔を見せたが、彼は何も云ってはくれなかった。
「聞きたいこと、ないの?」
 俊が、そう云った。

 聞きたいことなんて、なくなった。
 私は、俊と友達でいることは、もう出来ない。

 耳を塞ぎ、顔を伏せた私を、俊がどう見ているのか、知りたくなかった。
「お願い。もう帰して」
 声が震え出した。

 遠くで、誰かが、こそこそ話す。俊と息子しかいないんだから、二人が話しているのに決まっているけれど。
 私は、それすら聞きたくなかった。

 暫くして、何の音も聞こえなくなった。
 恐る恐る、私は顔を上げた。

 そこに、あの少女が立っていた。
 どういうわけか、瞳にいっぱい涙をためて・・。

「自分で、ちゃんと話せるか?!」
 俊は、少女にそう声をかけた。

 何を話すと云うの?!

 あれほど怖くて震えていたのに、不思議。この子を見ていたら、何だか聞かなくちゃならないような気がしてきた。
「何を話してくれるの?」
 私は、初めて声をかけた――。

 今度は、少女が声を上げて泣き始めた。
 でも俊は、何も云わない。
 少女も、ただ泣くだけで、私の前から去ることはなかった。

 夕闇が、店内に影を落とし始め、俊がライトを点した。
 ぱぁ〜っと薄赤紫に明るくなった、お店。さっきとは全く別の顔をした、妖艶な姿を現した。昔、クリスマスパーティでの雰囲気に似ているみたい。
 ううん。
 それより、もっと色っぽく洗練された、お店。

 これが俊の、お店…。

 それを見て、気持ちが軽くなった気がした。俊の選んで生きてきた人生を、祝福できると思った。
 これで本当に、俊に別れを告げることが出来る、と思った。
 俊の顔を見た。
 彼は、やっぱり綺麗な顔をして微笑んでいた。

 私の手は知らず知らずのうちに、少女の長い髪を撫でていた・・。

著作:紫草

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