『夏だけの恋じゃない』2


「起きなさい」
 久しく入っていなかった娘の部屋。
 鏑木若奈は意外と綺麗に片付いている部屋を見回しながら、カーテンを引く。
「今、何時」
「六時半よ」
 途端に布団を頭から被り直す娘。
「お弁当作るわよ。手伝いなさい」
 寝入った訳ではないので、お弁当? と訊いてくる。出かけるのは七時半だと告げると、慌てたように飛び起きた。
「待って。私、今日は予定があるの」
「知ってるわよ」

 夫の瑞稀が白城修和の連絡先を泉に訊いたことは知っていた。
 嫌がるかと思ったが、意外にも泉はすんなりと電話番号や住所を伝えていた。そしてその後、どうするということもなく過ごしていたが、ある日、彼はいい人だなという一言を残してベッドに倒れ込んだことがあった。
 翌日聞くと、とんでもない答えが帰ってきた。
『酒、強いんだよ。先に潰れるわけにいかないから必死だった』
 驚くことに、彼は泉の交際相手に一人で勝手に会いに行ったのだ。
 泉が知ったら怒られると思ったが、父親の精一杯の譲歩かもしれないとも思った。
 白城修和も瑞稀からの連絡を、泉から聞くこともなかったにもかかわらず受けてくれたという。ただ息子を迎えに行くし晩御飯を作らなければならないから、自宅に来て欲しいと言われたそうだ。
『光流君というんだが、いい子だった』
 その一言で、気に入ったんだなと思った。
 子供を見ると親の姿が透けて見える。突然、現れた見知らぬ親父に向かって、父親の背中に隠れることもなく、こんばんはと挨拶ができる。それが今の時代、どれだけちゃんとしていることか、彼は考えたのだろう。
 そして光流君と約束してきたから、今度の休みには二人だけでデートをさせてやろうと。

 展開についていけない若奈だったが、男二人で盛り上がった勢いではなく、ちゃんとした約束を息子さんとしたのなら守らなければならない。
 そして今。
 泉を修和に預け、こちらは光流を車に乗せ少し走った森林にやって来た――。

 光流は確かにいい子だった。
 泉が玄関先で声をかけると奥から走ってきて、抱きついていた。それだけで何度も同じ時間を過ごしているんだなと分かる。
 そして父親とは別行動だということで泣いてしまうんじゃないかと思っていた若奈の憂いは、あっさりと裏切られる。
 彼は瑞稀との約束をきちんと覚えていた。
「どうして一人でもよかったの?」
 不思議だった。彼がやりたいと言ったことは、カブト虫やクワガタを捕まえたいというものだったからだ。
「お父さんは捕まえたことがないの。おじちゃんはカブト虫のいるところに連れて行ってくれるって。ね」
 後ろの座席にチャイルドシートを取り付け、そこから運転席の瑞稀に声をかける。
 そうだと答える彼も嬉しそうだ。

「おばちゃんは苦手かもしれないぞ。大丈夫か」
「失礼ね。そんなことないわよ」
 隣に座る光流に向かって、笑いかけると一緒に笑ってくれる。本当に良い子だなと思う。
 そんな時間の中でドライブを楽しみやって来たのだった。

 本当はもっと早い時間の方が虫たちは活動しているという。しかしまだ三歳の光流には無理なのでこの時間になった。
 到着すると二人は早速、虫取り網やカゴを持って山の奥に出かけて行った。若奈も一緒に行こうとすると光流に、これは男同士の約束だからと断られてしまった。どんな理由であれ、光流が無理しているのでないのなら良いか――。

 二人はお弁当を食べに戻って来ただけで、残りの時間を森の中で過ごした。
 そして帰路についた車では、五分もしないうちに光流は夢の中だった。
「楽しかったみたいね」
「泉はどちらかと言えばおてんばだと思っていたが、やっぱり全然違うな」
 ハンドルを握りながらも、楽しそうに話す瑞稀に少しだけ嫉妬した。
「私も一緒に遊びたかったな」
「不思議なものだな。男の約束という言葉は光流君には魔法の言葉のようだった」
 きっと修和の考え方もあるだろう。ただ一人親では守ることのできなくなる約束も多いはずだ。そんな中で約束は守るものと素直に思える子供に育てることは大変だ。
「白城さんは何歳なの」
「お前の一つ上」
 上だったのね。

「母親よりも年上の人を好きになるという時点で、泉は普通じゃないわね」
 光流の寝顔を見ながら、こんな歳の子がいてもおかしくないのだなと若奈は思う。でも自分にはもう子供は望めない。
「泉が白城さんとお付き合いを続けてくれたら、これからも光流君と遊べるかしら」
 その言葉に瑞稀は即答しなかった。
「光流君に振られても俺がいるだろ。年寄りの俺を忘れるなよ」
 思わず笑みがこぼれた。
「忘れたりしませんよ。大事な大事な旦那様です」
「それは良かった」
 そう言ったところで光流が目を覚ます。
 あと十分くらいで着くよ、という瑞稀の言葉に窓から夜空を眺める。
「お腹、空いたよね。どこかで食べようか」
「ううん。お父さん、待ってるから帰る」
「じゃ、帰ろう」
「うん」

 屈託無い笑顔は、こちらまで幸せな気分にしてくれる。泉が三人のデートを楽しんでいるのも分かる気がする。
 若奈が瑞稀と知り合ったのは、学習塾だ。彼はそこで講師をしていた。大学受験の為に通った筈なのに、そこで生涯の伴侶を見つけてしまった。
 今だから笑い話だが、大学に入学してからも塾に行くので若奈自身もアルバイトで講師をすることになった。人手不足なんだから仕方がないというのが瑞稀の言い訳だった。
 お蔭で比較的、長く一緒にいられた。好きで好きで仕方のない想い。忘れていない。あの想いを、今は泉が経験しているのかと思うと応援したくなる。
「私、白城さんに会いたい」
「この後、お宅に上がることになってるよ」
 その言葉に光流が反応した。
「お姉ちゃんもいるの。やったあ」
 光流君は泉お姉ちゃんの作るご飯、何が好きなのかな。彼はそれなりに考える人になって、悩んでいるようだ。
「ピーマンとか甘くしてくれるんだよ。僕ね、ピーマン好きになったんだ」
 あとね、と続く話に楽しそうな三人の姿が浮かぶ。
 何を作っていてくれるかな。そう聞いたら、きっとカレーライスだよと言った。
 何故だろう。随分、確信しているようだ。
「たくさんの人で食べるカレーライスはとっても美味しいから」
 二人と三人。その差は一人。
 でも家族の一人は違う。
「そうね。たくさんの人で食べるカレーライスは美味しいね。今度はおじちゃんとおばちゃんの家に来て。カレーライス作るよ」
「うん。ありがとう」
 刹那、瑞稀の言葉が蘇った。
 ちゃんと挨拶できる子って、小さくてもちゃんと向き合おうって思うよな。
 そう。子供だけれど対等に話をする、それは大切なことだ。
「是非。お父さんも一緒にね」
 そして白城家では光流が言った通り、カレーを作って待っていてくれた――。

「じゃ。またね」
 遅くなってしまったので光流はすでに眠っていた。玄関先に出て来てくれた修和に泉が声をかけている。彼は瑞稀に向かい、何度目かの礼を言う。
「カブト虫なんてデパートで買うものだと思ってました。目が覚めた思いです」
「いえ。うちは男の子がいなかったので、本当に楽しい時間をもらいましたよ」

 瑞稀は、もしかしたら未来を想像しているのかもしれない。
 年上の方が生活を考えると、どうしても結婚という形になる。泉が別れると言ったら終わる、という簡単な話ではなくなるのだ。小さな子供がいるということは、勢いだけではいられないことを意味している。
 若奈は真剣に泉と話をしようと思った――。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2019年8月分小題【夏の虫】
『夏だけの恋じゃない』1  Nicotto創作 List 『夏だけの恋じゃない』3
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