忘れられなかった、君と。
 できれば、もう一度――


『 Vivid impression 』3 (完結編)


 新入社員という肩書は、もって半年だとことを痛切に感じる。
 夏の長期休暇を終え、職場に半期の決算という言葉が飛び交うようになると、新人だからという言い訳は利かなくなった。ただ、南風千紗は事務職だったので営業に回る社員よりはマシというだけだ。それなのに、何故か上司のご指名で急遽、出張のお供をすることになった。
 今春、入社した商社はとりあえず優良企業だったようで、忙しいけれど満足できる会社だった。しかしそれは事務職に於いてという意味で、営業の出張に付いて行くなどというおまけは必要ない。千紗はキャリアウーマンを目指しているわけじゃない。

「あの部長」
 何とか回避できないものかと声をかける。しかし部長は書類から顔を上げることなく、声だけで何だと聞いてくる。
「大阪へ行くのは別の方では駄目でしょうか」
「どうして」
「営業のことは何も分からないですし、付いて行っても荷物持ちしかできません」
 そこまで言って、漸く部長と目が合った。暫く見つめ合ったまま時が流れ、戻ってきた男性社員に、何二人の世界になってるのと言われ慌てて視線を外した。
「変更はなし。明日は東京駅の銀の鈴に午前七時集合で」
 そして部長は分厚いファイルを手に部屋を出ていった。

 思わず大きくため息をついてしまった。
「出張、嫌なのか」
 席に戻ると隣の席の同僚が小声で尋ねてきた。千紗は無言で首肯する。それでも仕方がないとは思う。自分はサラリーマンだ。上の命令には逆らえない。
「行きますよ」
 彼に一言だけ告げ、仕事に戻る。この決断は、千紗に少しだけ悲しい思い出を植え付けた――。

 ――数年前。
 手紙を出そうかと思っていた南風千紗。しかし出せなかった。その直後に祖母の様子が変わった。
 日本へ遊びに行ける筈もなく、学校と祖母の入るホームに通うだけで精一杯となってしまったからだ。

 あれから何年が経ったのだろう。
 手紙を出そうにも、完全にタイミングを失った感のある水谷楓雅であった。

 祖母はホームでの生活を六年続け、そして逝った。父が本当に哀しんでいるのを見た。勿論、風雅も悲しかったが、その悲しみは種類が違うと痛感した背中だった。
 そして二人は日本へ帰ってきた。日本に帰るのは春、と父は決めていた。単純に諸々の切り替えだからかと思っていたが、実は違った。
 春の日本は桜色に染まる。
 飛行機からの眺めの凄さは、筆舌に尽くし難いほど美しかった。

 そして落ち着いたのは、信州の小さな町だった。父は何れどこかの無医村に移ることになるだろう。しかし暫くは長野善光寺近くの医院に勤めることになった。大学病院時代の恩師小谷医師が開業しているところだった。
 風雅まで一緒にというわけにはいかない。医師が多過ぎても、給料が払えないと言われてしまうと何も言えない。当初は信州大の付属病院にでもと思ったが長野から通うのは大変そうだ。それはそうだろう。松本という場所は隣の県ほどの距離があった。
 父に相談すると、いっそ東京に出てしまえと言われた。知り合いなら沢山いるから紹介してやると。どうせ離れるなら雪国よりは都会の方がいいな、というのも正直な気持ちとしてある。それにアメリカよりは近い。

 急ぐ旅でもなし、暫くはホテル住まい。そこで新幹線ではなく在来線で行こうかと思ったら、小谷先生から高速バスがあると教えられた。ネットで調べると四種ほどヒットする。池袋に出るものがあったので、それに決めて長野駅前からの切符を買った。
 異邦人のような感覚もある。父と違って故郷という感覚すらない。そう思うと、やはり思い出すのは南風千紗の居た町のことだ。
 普通に大学を出ていたとして、もう何年になるのだろう。もしかしたら結婚しているかもしれない。そういう年数は充分経っていた。それも仕方ない。全ての連絡を絶ったのは風雅の方なのだから。

 数日後。
 高速バスで着いた池袋で、ビジネスホテルにチェックインした後、街に出た。
 知らないうちに随分賑やかな所になったものだ。新宿や渋谷に比べたら静かかと思って選んだのだがあまり変わらない。
 東側とか西側とかって言ってたな。
 父の方が断然詳しいのは、学生時代住んでいたからだろう。やはり東京で育っただけはある。
 どっちでもいいや。
 そう思って出たのはパルコの前だった――。

 あれ?
 今の姿……
 でも、まさか……

 南風千紗は、少し離れた通りを歩いていった男の後ろ姿に目を奪われた。
 忘れたくても忘れられない高校時代の思い出。そして数年前、出張先の大阪で子供を抱く彼の姿、きっと結婚したのだと思った。
 今追いかけたなら、きっと追いつく。もう一度、を心底願った相手が其処にいる。今なら一人。今なら……
 また傷つくかもしれない、と警鐘を鳴らす心に無理やり蓋をして走り出した――。

「風雅!」
 どこかで名前を呼ばれた気がした。
 珍しい名だ。同じ名前が皆無とは言わないが、こんな通りで聞こえてくると思わず周りを見回してしまう。
 でも分からない。やはり別人か、それとも空耳か。
 すると、再びの声。
「風雅。こっち」
 その声の主は、長らく逢いたいと思い続けていた女だった。
「千紗……」

 信号が変わり、渡ってくる。
「どうして、こんな所にいるの?」
 そう言ったら、それはこっちの科白だと反論された。それもそうか。日本を出ていくと言ったまま、音信不通だったな。
「とりあえず飯、食おう。どこか、安くていいとこ知らない?」
「安くて、は何とかなるけれど、いいかどうかは分からないよ」
「いいよ。安いだけで」
「じゃ、ファミレスね」
 そう言いながら、歩きだす。

 不思議な感じだった。
 もう何年逢ってなかったんだろう。その時間を超越したかのような感覚がある。昨日まで逢っていて、その続きって感じもする。
 名を呼ぶと、何? と振り返る。
 以前、呼んでみただけというギャグもあったと聞くが、まさにそんな感じになってしまった。
「声かけてくれてありがとう」
 逢いたかった、という言葉は飲みこんだ。今の彼女の状況が分からない以上、むやみやたらに自分の思いをぶつけるべきではない。
「私こそ。お前なんて知らないって言わないでいてくれてありがとう」
 そんなことを話しながら二人はジョナサンに着いた。

 食事もできる。酒も飲める。日本は本当に凄いよな。これがそれほど高いという金額でなく食べられる。
 再会の乾杯をして近況を話す。でも彼女の言葉はどこか変だ。
「千紗、何か隠してる?」
 その言葉にいきなりむせている。
 おい。大丈夫かよ。

 そして聞かされた内容に、今度はこちらが吹き出しそうになった。
「俺、結婚どころか。恋人作ったこともないけど」
 まん丸に見開かれ落っこちそうな瞳が、みるみるうちに涙で潤み始めた。
「人との関わりを絶ってきたんだ。女なんて特に大変だろ」
 そう言いながら、千紗のことだけは忘れなかったと初めて告げた。たぶん、言っても大丈夫。そんな気がしたから。

 何年か前、一度日本に重病を抱える子供の患者を迎えにきたことがあった。たぶん、その時だろうな。そんな遭遇、知る由もない。
 お互い、鮮やかな印象を残し相手を想っていた。きっとそういうことなんだろう。もう若い頃の勢いはない。でも子供の頃の片思いを卒業し、静かな大人の恋愛をしようか――。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2018年3月分小題【卒業】
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