月にひとつの物語
『霜月』(李緒版)

 頃は大正時代、8歳になる洋一は、2ヶ月前から母方の祖父の家で暮らしていました。
 関東大震災で家が半壊し、母と4つ年下の弟と3人で名古屋の祖父の家へ避難してきたのです。仕事のある父親は、1人東京に残りました。
 初めて会った祖父は、優しくて物知りで、洋一はすぐに大好きになりました。


 祖父は、女学校の国語の先生をしています。時折、そこの生徒さんたちが、祖父を訪ねてやってきます。お姉さんたちは、洋一のことを弟のように可愛がってくれました。いつもお兄ちゃんだからと我慢させられる洋一はそれが嬉しくて、お姉さんたちに混じって、難しい祖父の話(半分も意味がわからないのですが)を聞いていたのです。
 今日のお姉さんたちは、皆、袴を穿いていました。洋一は何があるのかな、と不思議そうに袴姿を見上げました。
「来春の大会こそは、一等を取るわ」
「私は駄目、しょっちゅうお手つきしてしまうもの」
「あら、決まり字を覚えてしまえば良いのよ」
 いつものように、洋一のことを構ってはくれません。お姉さんたちは部屋に入ると、すぐに見たことのない札を並べ始めました。
 洋一が弟とするカルタには絵があるのに、この札には文字しか書かれていません。その上、きっちりと等間隔に札を並べています。取りやすいように自分の方へ向けるなんてずるいじゃないか、と洋一はそう思いました。
 そんな洋一に微笑んで、祖父がこう言いました。
「これは、小倉百人一首というカルタなんだよ。洋一の知っているカルタとは違って、読み手の札にしか絵がないんだ」
 祖父に差し出された札には、お姫さまの絵や、お坊さんの絵が描かれていました。
「人の絵だけなの?」
「そうだね。百人一首は、昔の人が詠んだ和歌を集めたものなんだ。上の句を読んで、下の句の札を取る。ほら、見てご覧。この絵札には、『小倉山、峰のもみぢ葉心あらば、今ひとたびのみゆき待たなむ』とある。こちらの取り札には、『いまひとたびのみゆきまたなむ』とあるだろう? この絵札を読んだら、この取り札を取る、というのがこのカルタの遊び方なんだよ」
 取り札は平仮名で書いてあるから、洋一にも読むことができましたが、どうして始めから書かないんだろうと、首を傾げました。
「洋一が遊んでいるカルタもそうだけれど、百人一首のカルタも、和歌を覚えるためのものなんだ。洋一もカルタで遊んでいるうちに、いろいろなことわざを覚えただろう?」
「うん、ゑんはいなものあじなもの」
「洋一さん、縁の下の力持ち、じゃあなくって?」
 お姉さんの一人が、したり顔でこう言いました。
『ゑ』という難しい平仮名の札は、洋一のお得意だった筈なのですが、間違えてしまったのかと、不安そうに祖父の顔を見ました。
「この辺りではそうだがね、洋一のいる東京のいろはカルタの『ゑ』は、縁は異なもの味なもの、なんだ」
 洋一もお姉さんたちも、いろはカルタはどこでも同じだと思っていたから、祖父の話にびっくりしました。さっきのお姉さんは、ごめんなさいね、と洋一に謝ってくれました。ずっと年上のお姉さんに謝られて、洋一はこそばゆいような心持ちになりました。
「さぁさぁ、並べ終わったようだから、対戦を始めよう。洋一、百人一首も面白いぞ。ここに座って見ているといい」
 洋一は、祖父の隣に座りました。2人のお姉さんが前に進み出て、札をはさんで向かい合って座ります。カルタと違って、2人だけで札を取るのなら、自分の方に向けてあってもずるくないな、と洋一は思いました。
 お姉さんたちは、真剣な顔つきで札を睨んでいます。洋一も息を詰めて、声が掛かるのを待ちました。
「それでは、始めます。ももしきや、古き…」
 はいっ、と元気な声が響いて、右のお姉さんが札を取りました。
「貴方のお得意の札ね」
「子どもの頃、最初に覚えた札よ。だって、もも引き…」
 嫌ぁね、という笑い声が飛び交いました。洋一も、もも引きと言ったのかと思って、祖父の顔を見たのです。
 祖父は笑いながら、ももひきではなく『百敷き』で、宮中という意味だと教えてくれました。
 その後も次々と和歌が読まれて、札は取られていきました。向きが逆でも、お姉さんたちは間違えることなく取っていきます。あっという間に札が減っていくのを、洋一は感心したように見つめていました。
「君がため、惜しからざりし、命さえ、長くもがなと…」
「はいっ」
 声変わりのしていない高い声が響いて、皆が一斉に、洋一のことを見ました。
 札は、洋一の手の中にありました。すぐそばにあった札を眺めていたら、それが読まれたので、つい手が伸びてしまったのです。
 呆気にとられたお姉さんたちに見つめられ、洋一は小さくなって札を差し出しました。
「…ごめんなさい」
 その札を受け取ったお姉さんが、くすくすと笑い出しました。
「洋一くんは、情熱家さんね。いつかそんな激しい恋をするようになるのかしら」
 自分の取った札がどんな歌なのかも知らない洋一には、情熱家さんという言葉もどういう意味なのかわかりません。ただ、お姉さんの鮮やかな笑顔を見て、何故だか顔を伏せてしまったのでした。
「君がため、惜しからざりし、命さへ、長くもがなと、思ひけるかな」
 対戦相手のお姉さんが、札を見ずにすらすらと読み上げます。
「あら、覚えているなら、お取りになればよろしかったのに」
「今、思い出したのよ」
 ぺろりと舌を出して、お姉さんは肩をすくめました。
「恋の歌なら、やっぱりこれね。瀬をはやみ、岩に…」
「私は、君が行き、日(け)長くなりぬ、山尋ね…」
「あら、それは万葉集じゃないの」
「そうでした」
 洋一の失敗は、どこかへ消えてしまったようです。途端に賑やかになるお姉さんたちを見て、洋一はほっとしました。
 その騒々しさも、祖父がごほん、と一つ咳をすることで静まりました。2人のお姉さんたちの顔にも、真剣さが戻ります。
「競技を再開します」
 次の札を読む祖父の声を聞きながら、洋一は百人一首の歌を覚えようと決めたのでした。


 対戦が終わって、札を片付けていたお姉さんが、一枚の札を、洋一の手のひらへ乗せてくれました。
『ながくもがなとおもひけるかな』
 それは、洋一が最初に覚えた歌になりました。
 大きくなった洋一がどんな恋をするのか、それはまだずっと先のお話──。
【完】

著作:李緒

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