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『風雪』

第9章 基久子

 遠田基久子にとって、人生は復讐に費やす日々だ。
 お金があれば何でも解決できると思う人種を、許せない。でも、そのお金に負けた自分はもっと許せない――。

 若くて純粋な恋だった。
 大学に入学してすぐにできた恋人は、とても優しくて誰よりも尊敬していた。何をするのも新鮮で、彼の為なら何でもしてあげたいと思っていた。最初の違和感は何だっけ。
 ……そうだ。彼、赤川義樹が同じ学部の女の子と相合傘で歩いているのを見たんだ。若い頃の恋はとても一途で、自分という存在がいるのに他の子と相合傘をすることが裏切りに思えた。
 少しずつ離れていく。分かっているのかいないのか、彼からの連絡も途絶えがちになり、それで気付いてしまった。義樹は別れたがっているのだということに。
 縋るなんてことはできなかった。見っともない姿を見せたくなくて、何も言わずに別れた。これを自然消滅と呼ぶなら、義樹はお人よしだ。

 それから他の人とつきあったこともあったけれど、結局うまくいかなくて、勉強とバイトに明け暮れた大学生活になった。就活には失敗。でもどこかに潜り込むしかなくて、派遣会社に登録した。
 あれは神様が引き合わせてくれた運命だと思う。当時の仕事先、家電の新作発表の席に義樹を見た。もう忘れられていると思った。彼が早くに結婚し家庭を持ったことを知っていたから。だからどんな言葉をかけようか、仕事も手につかないほど、ぐるぐる考えてしまっていた。
『基久子。久しぶり』
 だから、そんな至って当たり前の言葉が告げられても、咄嗟に反応できなかった。ついていた常務に、知り合いかと尋ねられた時も応えたのは義樹の方だった。
 小さな発表会だ。打ち上げがあるわけでもなく、そのままお開きとなる。出入り口に向かうと義樹の姿があった。
 仕事は何時までかと聞かれた。常務が直帰してもいいよと言ってくれて、そのまま二人で食事に行くことになった。

 昔は入ったこともない店に行く。その日に限らず、フレンチ、和食、イタリアン、いろいろな所に連れて行ってもらった。支払は全て義樹だったから、彼は気付かなかったのかもしれない。基久子にはこんな高級な料理は似合わないということに。
 もう住む世界が変わってしまったんだと痛感する日々に、それでも誘われれば出かけていく自分が情けなかった。
 あの日も何度か出かけたホテルの和食屋で会っていた。学生時代にはない話題も、彼が相手だと思うだけで楽しかった。
『部屋を取った』
 それだけで、その後の転落が見えた――。

 赤川葉月と離婚をする。彼が突然、そんなことを言いだした。できる筈がない。大事な取引先の重役の娘だと聞いていた。それでも縋ってしまいそうで怖かった。
 しかし、それが現実になるかもしれないと思った瞬間がある。妊娠したのだ。義樹はずっと子供が欲しいと言っている人だった。葉月の両親を交えて離婚の話をし、あとは弁護士に任そうと思う。それは真実の言葉に聞こえた。
 彼が話をしている筈の日。かかってきた電話でその場に来るよう呼び出され、今後の話をするのかと深く考えることなどせずに出かけてしまった。
 いたのは彼と、葉月の両親。葉月自身は不在だった。

『子供は引き取る』
 最初は何の冗談だと思った。主に父親が話をした。生まれるまでと、その後一年間の全ての生活費、新しいマンション、そして就職先の紹介。次々と出てくる話に、義樹は何も言ってはくれなかった。
『魅力的なお話ですね』
 純粋な恋だけではなくなっていた。

 ただ基久子にも意地はある。何でも言いなりになると思った、お金持ちの愚かな人たち。子供を取り上げられ、お金だけで方が付くと考えたのが間違いだと教えてやる――。

 就職先にはどんな説明をしたのか、まるで分からない。ただ新卒の子たちと同じ春の入社になったので、誰もコネで入社したとは思わなかったようだ。大手の会社だったので、あっという間に貯金額が増えていく。
 基久子は母の旧姓を名乗り、赤川家のある住宅の一角に家を建てた。同じ町内会という場所で、呆気ないほど簡単に葉月に近づいていく。馬鹿な女だった。こんな女に負けたのかと思うと涙も出てこない。

 基久子が若い頃に大失恋をしたまま独身を通していると言ったら葉月はあっさりと信じた。子供を産んだけれど相手に取られてしまったのだと言っているのに、それが自分のことだとは思いもよらないらしい。
 いつしか、何でも相談できる友人というポジションに収まった。彼女を手玉に取るのは本当に愉快だった。

 それが別の展開を見せることになったのは、新しい女の登場だ。義樹は外に女が複数いるんじゃないかと言ったのは自分だが、本当の彼は次々に浮気ができるような人じゃない。すでに過去の女になっている筈の自分なのに、思わず嫉妬してしまったことで、まだ想いが残っていたのかと驚いた。
 同じ町内というのは便利だった。赤川家から少し離れた家の女性から、あの家と隣の矢谷家のことを聞いた。
 どこにでもいる放送局の女性は、内緒よと言いながら何でも教えてくれる。中には嘘も紛れているかもしれない。でもよかった。その人の前で少しだけ仄めかせばいい。
『赤川さんの旦那さんと、矢谷さんの奥さんが二人で話してるところを見たわ』
 何処でとか、どのくらいの時間とか、そんなものは必要なかった。彼女は自分の妄想のなかで話を広げ、あちらこちらに内緒話を広げていく。葉月が相談にきたのは一週間もしない頃だった。

 元々、隣に住んでいたのだろう。そこに自分たちが越してきたのだと分かっている筈なのに、長男の基義の母親は誰かしらと一言告げただけで疑い始める。
 愚かな女、それほどまでに義樹を愛しているのなら、そのまま本人にぶつかっていけばいいのに。
 新しい女が基義の母親ではないかと言い出した時、今度はこちらが面食らった。基義は自分の子だ。何故、そんな話になるのだろう。
 基久子に親はいない。兄弟もない。基義を産んだことは誰も知らなかった。

 偶然を装い、矢谷郁代に近づいた。葉月と違って彼女は鋭かった。どんなに聞き出そうとしても、当たり障りのないことしか話さない。あとでご主人が警察に勤めていると聞く。口が堅いのはそのせいかと思った。
 ならばと葉月の娘、皐月に近づいた。呆気ない程、疑心暗鬼になっていった。さすがは葉月の娘ということだろうか。

 気付けば、後戻りできないほど赤川家の内側に入り込んでしまった。もうやめなければ、取り返しのつかないことになりそうだ。
 家を売る準備を始め、マンションに戻った。新聞に小さな記事が載ったのは、それから十日程あとのことだった。
 葉月が義樹を刺した。それを読んでも何も感じなかった。復讐はもう終わった――。

 五年程して再びあの町を訪れる。
 休日だったけれど赤川家には誰もいないようだ。そのまま歩いていくと矢谷家の前に出る。こちらは庭先で女の子が花壇の手入れをしていた。確か実玖といったか。
 捲った袖の下に、酷い火傷の痕が見える。思わず彼女を見てしまったら目が合った。
「こんにちは」
 初めて交わした言葉だ。もう貶めるような何かを含む必要もない、ただの挨拶の筈だったのに。彼女の瞳の圧倒的な強さに、見事に完敗したと崩れ落ちた瞬間だった――。
To be continued.

著作:紫草



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