その人が現れたのは、穂坂桃里から鍵を預かって二週間後のことだった。
水野操。
桃里をつけ回し、危うく警察沙汰になるところだったと聞いた。ただ、そのことが原因で彼は部屋を離れた。決して越したわけではないが、毎日帰宅はしない。引っ越したくないと言った、彼の言葉が胸をしめつけた。
原嶋舞夏のバイトをする居酒屋に、彼女は現れた。
聞けば、翌日仕事は休みで遅くなっても大丈夫だと。何故、そんなことを言うのかと聞くと、舞夏も明日は休みでしょと確認される。
今度は、こちらのストーカーかと思ったものの、先ほどスーパーに行き、すでに仕事は上がり明日も休みだと教えてくれたのだと言う。
一瞬、そこまで教える必要ないだろうと思ったが、聞いてしまったものは仕方がない。どうせ何か用があって来たんだろうから、とっとと用件を聞くことにした。
「ホストクラブに行きましょう」
これが漫画だったら、舞夏の頭上には間違いなく鳩か何かが飛んだであろう。水野の顔はそれは晴れ晴れとしており、何がそんなに嬉しいのかと首を傾げたくなる。
「あの、私、今仕事中なんですが」
否、違う。この人と出かけるなんてあり得ないと思い直す。しかし…
「終わってからでも大丈夫。明け方までやってるから」
更にお金の心配はいらないと付け加え、待っているから仕事に戻れと追い払われた。
午後十一時に仕事を終え、裏口から出ると彼女は前回と同じ場所で待っていた。そして手に持つ紙袋を差し出してくる。
「何ですか」
「これに着替えて」
「は?」
中には見たこともないような洋服が入っていた。
「これに着替えてきて。ほら、早く」
今夜の水野は本当に機嫌がいいらしい。何だか怖いくらい顔が笑っている。
舞夏は反論するのも面倒になり、更衣室に戻って入っていたワンピースを着た。サイズフリーのため、頭からすっぽり。簡単なものだと思い、そこにある上半身が映る鏡を見る。
綺麗。
思わずその単語が頭に浮かぶ。なんの変哲もない、薄いピンクの無地のワンピース。襟元に宝石で小さな飾りがついていて袖口と裾に同色のレースの縁取り。
履いているスニーカーが恥ずかしくなるなんて感覚を、初めて味わった。
袋のなかを見ると、パンプスも入っている。サイズは若干大きいかも。でもそんなことは気にならないくらい、可愛い。
舞夏が着替えた服を紙袋に入れ、外に戻ると水野はまだそこにいた。
「着替えましたよ。この服、どうしたんですか」
クリーニングに出すとなると、正直厳しい。こういう服のクリーニング代金って高そうだ。
「あげるわよ。私の昔のものだけど、もう着ないから」
そういうわけにはいかないと答えるよりも先に、手を取られ駅に向かって歩き出す。本当にホストクラブに行くつもりなんだろうか。
とにかく浮かれている彼女には、もう何を言っても無駄のよう。仕方なくついて行き、そこが何処だか分からないまま煌びやかなお店の扉をくぐった――。
黒服を着た男性が、いらっしゃいませと出迎えてくれたものの、すぐに待っていてくれと残し奥へと消えた。
こういうお店ってすぐに入れないんだ、と周りを見渡すと鏡がいっぱい。あと写真。昔のブロマイドみたいで変なポーズつけてるものが並んでいる。
暫くして、少し年配の男の人が出てきた。
「いらっしゃいませ。水野様。申し訳ありませんが、こちらへはご来店禁止する旨お伝えしてありますが」
慇懃無礼。この言葉がぴったりだ。そう思っていると、これまで機嫌のよかった水野が怒り出した。
それよりも……
「今、禁止って言われましたか」
男は、一言。はい、とだけ答える。
奥にいる男性スタッフに、今も文句としか言えないことを喚いている水野の腕を取り、出ましょうと声をかけた。彼女は、初めて舞夏に気付いたような顔をして、今度は逆に腕を取られ前に押し出されてしまう。
「シノブ君の知り合いよ。私だけじゃなく、彼に恥をかかせるつもり」
彼女は言い終わると、勝ち誇ったような表情で振り返る。
馬鹿馬鹿しい。
ホストクラブに知り合いなんていない。舞夏は帰ると告げ踵を返す。
やっぱり滅茶苦茶だよ。
大人の世界は分からない。サービス業で入店禁止なんて信じられない。
舞夏は標識を頼りに駅を目指す。もう深夜だというのに、昼間よりも明るく眩しい。こんな所が同じ東京にあることに驚き、居酒屋に忘れられる雑誌に出ているものは作られたものではなかったと納得した。
暫く歩いていると、救急車のサイレンが聞こえてきた。それは舞夏の脇を抜け走り去る。この幻のような街に不釣り合いなものを見たような気がした。まるで自分のようだ。
帰ろう。
舞夏は水野から借りたワンピースを見て、改めて思う。分不相応な場所には来るものじゃない。
その時、名を呼ばれて足を止めた。それは水野ではなく、忘れられない人の声だった。こんな姿を見られるのが恥ずかしく、振り向くことなく耳を澄ます。
「彼女、窃盗を穏便に済ませてるから出入り禁止なんだ。舞夏はきっと利用されたんだよ」
「利用…」
そう言われたら納得できる。
「送る。タクシー呼ぶから待ってて」
もう、意地を張る気力もなかった。このまま送ってもらおう。
「待って下さい」
店に戻ろうとしていた桃里を呼びとめた。
「あの人、どうなるんですか」
帰ったよ、とだけ答えて桃里は再び走りだした。
そのままアパートまで来て、桃里も一緒にタクシーを降りる。折角ここまで来たから、今夜はこちらに泊まるという。預かった鍵を渡すと、彼は部屋の中へと消えていった。
翌日、桃里は再び鍵を預けにやってきた。ただし、言葉は別れを告げに。
いつもの窓際に胡坐を組み、鍵を差し出す。
「関わらない方がいいと言いながら、鍵を預けるんですか」
舞夏も夜、居酒屋で働く。しかし、夜の世界ではない。営業時間が遅いだけだ、昨夜、ホストクラブの入口を見ただけでもそれは分かった。自分のいるべき場所じゃない。
桃里は、自分たちのような夜の顔の人間と離れた方が幸せだと言った。
「アパートは手離さない。でも、もし舞夏のいう本命ができたら鍵は取り替える」
その言葉を、無性に寂しいと感じてしまった…
「幸せ?」
そんなこと、誰が決めるの。
「誰もがそう言うよ」
「穂坂さんも、そう思うんですか」
彼は暫時黙考の後、首肯した。
「分かりました。この鍵が合わなくなったら、出ていきます」
そんなことは言ってない、と狼狽える桃里は今以上の家賃になったら暮らせないだろうと舞夏を危ぶんだ。
それはそうだ。古い間取りの六畳一間。流しと浴室、そしてトイレ。それだけあって月二万五千なんてどこにもない。
「仕方がありません。どこかを探します」
探せない時は、水商売。それは中学卒業の時にも考えたことだ。ただあの時は年齢制限でできなかっただけ。二十歳になった今なら問題はない。
「ここに居て欲しいと言ったら」
桃里の視線に囚われた。舞夏が自分の本心に気付いた瞬間だ。
「理由がありません。離れる方が幸せだと言ったのは貴方です」
先日、店にあった雑誌に花言葉が載っていた。
『はかない恋』
何といったか、黄色い秋の七草の一つ。
いつしか隣の綺麗なお兄さんは、恋するお兄さんになっていた――。