月にひとつの物語
『師走』(李緒版)

 まだ家長制度の残っていた時代、肺病は死の病いでもありました──。

 雪か…。
 目が覚めて、あまりの静けさに一瞬耳までやられたのかと思った。必死に音を探すうち、清冽なまでの空気の冷たさに、雪の朝なのだと気付いた。
 近頃では、朝、目が覚めると、今日も生きていられたという思いと、まだこの痛みに耐えなければいけないのかという疎ましさとが交錯する。
 病みついて、もうどれくらいになるだろう。
 家長とは名ばかりで、働くこともできなかった。薬代ばかりがかさむ生活費は、全て友人たちが融通してくれている。父母はとうに亡く、出戻りの姉が、病床の自分の世話をしてくれた。
『三年子なきは去れ』の言葉通り、子の産めなかった姉は、げっそりとやつれて婚家から戻された。どんな扱いを受けていたのかは、想像して余りある。これほど痩せこけて、子など産めるはずもないと憤りながらも、玉の輿と言われた相手に文句など言える筈もなかった。
 姉は、病人の面倒を看るために戻ってきたようなものだ。自分は病いのために、志半ばで実家へ戻ってきた。姉も床を上げたばかりだったのに、病人の面倒を見るはめになったのだ。それでも姉は、父母を看取ることができて良かったと、病人の弟を1人放っておくことなく看病できて良かったと、笑って立ち働いてくれている。
 自分が死んだら、残された姉は1人どうなってしまうのだろう。
 それだけが、唯一の心残りだった。
 辛い思いをした姉に、再嫁しろとは言えなかった。1日中床の中にいながら、どうすることもできない自分が、ただただ歯がゆかった。


 詮無い物思いにふけっていると、戸口の開く音がした。姉はもう朝の支度をしているのだろう。そう思ったのだが、続いて聞こえてきたのは、人の声だった。
 辺りを憚るような、小さな話し声。
 耳を澄ませると、全ての音が吸収される銀の世界で、2人の声だけが、密やかに聞こえてきた。
「…どうしてですか」
 男の声だった。こんなに早朝、一体誰が訪ねてきたというのだろう。
「私は…、子の産めぬ女です。何より、あなたより3つも年上です。私のことなど、忘れてください」
 腹が立った。
 姉に、こんなことを言わせるなんて。
 浮ついた心で姉に言い寄るなど許せない。
 そう思うのに、この身体は起きあがることすらできなかった。歯がみするばかりの自分をよそに、話し声は続いた。
「貴女は、私の想いを受け入れてくださると、一度はそう言ってくれた。それなのに、何故」
「弟を、病気の弟を一人放っておくことはできません。あのことは…、ただの気の迷いです。本心ではありません」
 俯く姉の姿が見えるような気がした。姉は、この男のことが好きなのだ。声だけだからこそ、思いは強く伝わってくる。出戻った後、姉の笑顔が次第に明るくなっていったのは、彼のお蔭だったのだ。
「私に好意を持ってくれているかどうかくらいは、わかります。自分の気持ちをごまかさないでください」
「でも…」
「貴女を愛しています。子など産めなくてもいい。子孫のために結婚するわけじゃない。ただ、貴女と一緒にいたい。それだけなんだ」
 その時、不意に庭から、雪の落ちる音がした。
 風にでも揺られたか。庭先に植えられた南天から落ちたのだろう。そんな微かな雪の音だった。
 それきり、話し声は止んだ。
 姉と話していた男の声。
 その主を、自分は知っている。病いに倒れた時から、親身になってくれた大切な友人。
 あいつなら大丈夫だ。姉を任せられる。それに、三男坊だから、喜んで婿に来てくれるだろう。
 あいつが兄になるとはな。学生時代は思ってもみなかった。あんなにも熱い言葉を言える男だったとは。
 これで、安心して父母の元へと逝ける。
 神仏が回りにいるような、清冽なまでの冷たい空気の中、自然と手を合わせて感謝していた。
「姉さん、話しがあるんだ。ちょっと来てくれるかな」
【完】

著作:李緒

月にひとつの物語-contents 「師走」(紫草版)
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