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Penguin's Cafe
『馨る』

 ♪カラ〜ン
 耳に心地好い、鈴の音が店内に響いた。
『いらっしゃいませ』
 店主の低音は今日も穏やかに耳に届く。
『Penguin’s Cafeへようこそ』

 店主である神部が、入ってきたお客様の顔に見覚えがあると思った刹那、後ろからもう一人男性が続く。
 次に彼女はその男性に向かい、左右で雰囲気の変わる店の構造を説明しどの席にするかと聞いていた。彼は店全体をゆっくりと眺め、真っ直ぐにカウンターに足を運ぶ。
 神部は彼が席に座ると、改めて声をかけレモンスライスを浮かせた水のグラスを置いた。
 ご注文は、と聞こうとしたところで彼女がメニューの説明を始める。どうやら、世話をやきたいらしい。そう感じた神部は一旦カウンターを出て、いかにも用事があるというように扉の脇にあるレジに立った。
 一通りの説明が終わるかな、というタイミングでカウンターに戻る。そして暫し二人の言葉を待つ。
「食べるものはないの?」
 彼の言葉は神部に向けられた。店の中央には硝子ケースの冷蔵庫がある。スイーツならそこに入っているので好きなものをどうぞと告げ、サンドウィッチか今日ならミネストローネが出せると付け足した。
 彼は少しだけ体を後ろに向け、二段目に置いてあるケーキを指した。彼女の方は紅茶を頼み、再び彼に飲みものは何にするかを聞いている。
「珈琲を。あのケーキに合う珈琲を淹れて下さい」
 神部は、いつものようにケースから取り出したケーキを、同じく冷やしてある皿に盛る。女性のお客様だと皿に加えるのは生クリームにするのだが、今回はビターチョコを置いてみた。
 ケーキに合う珈琲という注文だ。甘いものばかりよりは、チョコとはいえビターを選ぶ。珈琲も少し時間をかけて落とし彼の前に置いた。

 彼女は彼との会話を諦めたようだ。
 黙々と口に運ぶケーキが、とても綺麗に消えてゆく。
「私にも同じケーキをください」
 どんな心理が働いたのか、彼女も一緒に同じケーキを食べることを選んだ。
 休日の昼下がり。珍しくお客様はこのお二人のみ。ゆっくりこの空間を楽しんでもらおうと、神部はカウンターからレジに移った。

「マスター。すごく美味しい、この珈琲」
 彼はその体をカウンターに向けたまま、告げた。

「有難うございます」
 いつもと同じ言葉ではあるが、少しだけ違う思いがよぎる。
「お客様、よろしければもう一杯お淹れしましょうか」
 そこで漸く、彼はレジにいる神部の姿を目視した。

 彼女との関係は分からない。
 ただ彼は、彼女との会話を望んでいないと感じた。何より、珈琲が好きなようだ。
「ええ。次は…」
「エスプレッソは如何ですか」
 神部の言葉に少しだけ驚いた表情を見せ、そして頷いた。
「是非」

 もう何年も前に通ってくれていた女子高生。彼女が再びここに通うことはないだろう。
 しかし、どうやら新しい常連さんを導いてくれたことは間違いないようだ。
「マスター。ここってアルバイト募集してないの?」
「沙我君!」
 彼女の声が響き渡ったところで、新しいお客様が入ってきた。
 神部は、レモンスライスを取り出しながら沙我と呼ばれた彼に答える。
「申し訳ありません。私は雇われている身なので、そういったお話にはお答えできません」
 そう言いながら、果たしてオーナーはどうするだろうと想像する。少しだけ胸の奥に、もやっとしたものが浮かんでくる。
 そこで常連さんの声が神部を現実の世界へと呼び戻した。
「いつか機会があれば、オーナーに遇えるかもしれませんね」
 トレーに載せたグラスを運びながら、神部は絶妙のタイミングで二人にウィンクを残す。それはまるで彼の淹れた珈琲のように、独特の馨りをその空間に漂わせていった――。
【了】

著作:紫草

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