大昔。
空に我等、龍神が多く飛び交ふ、その下に――
脳が覚醒した時、彼は小さな湖畔で泣き叫んでいた。
自分が何者であるかも分からず、ただ泣き声を上げる。
そうしなければ生きてはいけないと、本能が警鐘を鳴らしていたから。
その時、彼は生まれ落ちた直後の赤子であった。
泣き声を聞きつけて拾い上げてくれた最初の女の呼んだ名が、そのまま永遠の名となった。
山奥の小さな村の、そして小さな集落の幸せな暮らしだった。
物心がつく頃には、自分は普通に少し優れているだけの人の子だと信じて疑わなかった。
村のみんなも、誰も自分を両親の子でないなどと言うわけではない。
長老の話を聞く日と、山へ狩りに出る日。何もせず遊ぶ日に、大人たちの手伝いをする日。
毎日は、ただ楽しく過ぎてゆくと信じていた。
「伽耶」
母の呼ぶ、いつもの優しい声に返事をしようと振り返る。
はい、と答えた言葉の最後は声になっていなかっただろう。
そこには母と鬼が、否、鬼のように見える大きな男が立っていた。何処の織物かと思うような美しい色の着物を着て、女のような薄衣を羽織っていた。
「よく生きていたな」
その長身の男の声は、何とも優しく響くように聞こえてきた。
「俺を知っているのか」
あゝ、と答えたその吐息のような声も、色の見えるような声に聞こえた。
すると彼の後ろから、長老の姿が現れた。
「真実を話す時は、もっと先であって欲しいと思ってきた。なければいいとも願っていた。しかし湖畔でお前を見た時にそれは無理だと分かってもいた。おいで。全てを話そう」
長老の後に従い、三人は微妙な距離を取りながら歩いた。
いつもは明るい母の表情が、穏やかとは言いがたい笑顔になっている。
「母さん。大丈夫か」
背中に手を添えて、声を掛ける。
いつものように静かに微笑んでいるように見えるが、絶対に何かが違うと感じていた。
長老の家に入る。皆が座るのを待っていたかのように、長老が話し始める。
「伽耶。お前は山奥にある神苑の湖(うみ)に浮いていたのを、その母に拾われたんだ――」
神苑の湖…
病が流行ったり、豊穣を祈る祭りの時にだけ汲んでくる湖の水。
その湖に浮いていた!?
「この世のものとは思えない、それは綺麗な花の上にね。まるでその花が貴方を守っているように浮かんでいたわ。私が貴方の泣き声に気付いて近づくと、その花が貴方を湖畔まで運んだように流れてきたの」
それは御伽話か何かかと、冷やかそうと思った。
けれど、できなかった。
長老の淋しげな瞳の色と母の涙と、そして男の微笑みがその言葉を飲み込ませた。
「俺は何?」
「人だよ。ただ人の世ではなく、天へと通じる世界の者だ」
男は、それだけ言うとその後は沈黙した。
ただ極度の緊張の中に、時だけが流れてゆく。
長老が部屋を出ていったのにも気付かなかった。母も去り、男と二人きりになって漸く言葉になった。
「俺は殺されるのか」
男は首を横に振る。
「そんなことをするわけがない。ただこの村ではもう暮らせない。気付いているだろう。君と同じ年だった友だちが老年という姿になっているね。この時間の流れの違いはどうにもならない」
そうだった。
どういうわけか、自分の姿はまだ十代という姿なのに周りの友は、もう老い始めている。
「そういう人を集めている処がある。同じように少しだけ人より長命な種族もある。役の小角という人を知っているかい」
その名は長老から聞いたことがあった。
「彼に君を預けることにしよう。小角の許で、様々なことを学ぶといい」
途中から伽耶は、どうしようもない自分の運命に従うことを決めていた。
「分かった。一つだけいいか」
その問いに、男は首を傾けることで問い返す。
「名を… できたら母のつけてくれた名を変えたくはない」
「伽耶。良い名だね。天界でも、その名を使うといい」
男は、やはり美しい色の見えるような艶のある声音を響かせ微笑みを見せる。
伽耶は、その日のうちに男について村を出た。
別れは嫌いだ。涙も嫌いだ。何より母を悲しませてしまう自分自身が嫌だった。
それでもこの後、ことある毎に伽耶はこの村を訪れ、長老と両親とそして其々の子孫たちを守ってゆくことになる。
それはまた別の機会の、お話ということで…
【了】