大昔。
空に我等、龍神が多く飛び交ふ、その下に――
空間の河。
天上界と天界の間にあり、距離と時空の狭間を繋ぐ場所。
それがいつから在ったのか。
今ではもう、誰も知らないのかもしれない――。
河渡りの者。
この生を授けられた時、すでに自分の存在はこの名に縛られていた。
天上界にあり、天上界の誰にも会うことのない存在。
天上界の者には姿の見えぬ存在。
天界との往き来の為、舩の棹を持たされた時、自分の運命が決まったのだと初めて知った。
何度舩を出しても、乗るのは小さな木箱だけ。何も書かれることのない、白紙の文。
天界の者にも会えず、人型を取る必要もなく、このまま永遠の時の中で役目が終わるその時まで、棹を取り続けるのだと思っていた。
ところが只一人、そんな自分の姿を簡単に見つけた者があった。
≪リューシャン…≫
遠い記憶に封じ込めた彼女の姿を想い出す。
往きたくないと泣いた彼女を、あの時連れて逃げていたら、今の自分はどうなっていたのだろう。
河渡りの舩に、たった一人乗った龍族の者。
役目に忠実なれ、という何物にも優先される教えの中で、唯一自分の感情が湧き上がった瞬間だった。
今も、はっきりと憶えている。
舩を降りる間際、ザキーレを見た時の彼女の顔…
≪あの嬉しそうなリューシャンの心を壊した奴を、ワタシは許さない≫
河渡りの者――ジュラの氷の心に憎しみの火が灯った。
天界へ続く空間の河を、ジュラはその力で封じながら最後の舩を出す。
二度と戻らぬ天上界に未練はない。
しかし天界は、どう思うだろう。
すでに天上界からの文はなく、天界への役目はない。ジュラはいつもの空間の河より更に舩を先に進め、金の海と呼ばれる場所へと続く金の河を下ってゆく。
この金の河も海も、通常天人の目には映らないと聞く。
人に姿を認識されない自分との共通点をみたようで、ジュラが珍しく微笑んだ。
海に注がれる直前の場所に舩を停め、彼は海へと言の葉を送る。
≪この舩の居場所として、こちらの海をお借りしたい≫
海は応えた。
ジュラが棹を入れることなく、舩が海の方へと動き出したのだ。
金の海。
(この先に地上界への途があるというのだろうか…)
波に乗る舩の揺らぎは、ジュラ自身を天界という場所へと運んでゆく――。
そして此処には、リューシャンを壊してしまった奴がいる…。
長が、すでに天界にはリューシャンはいないと云っておられた。それでも自分自身での確認と、白虎様と話をしなければならない。
西の空に浮く島を見上げた。そこには薄く雲のかかった月が、あるように見えるだけだった。
やがて金の海に舩が停まった。
≪島を一巡りしたら、戻って参ります≫
そう言って、ジュラは舩を降りた。
≪どうぞ舩の最期を、よろしくお願い致します≫
深々とさげる彼の頭に、波の花がぱっと散った。
人型をとった彼の顔に、仮面がつけられた。
男でもなく女でもなく、そして人でもない自分の存在は、隠す方が有効なのだと以前、長から聞いたことがある。
ならば存分に利用させてもらおう。
後に天人の間に受け入れられ、そして残酷に裏切っていく“仮面の男”の誕生である――。
それはまた別の機会の、お話ということで…
【了】