大昔。
空に我等、龍神が多く飛び交ふ、その下に――
海に落ちた感覚は、ジュラの中に確かに残っている。
金の海に意志があるのなら、きっと今、自分はリューシャンの近くにいる筈だ。
二人を捜す時と空間の旅が始まった。
しかし打ち上げられた海の近くに、リューシャンの郷はないようだった。
仮面をつけた姿は白虎の封印のお蔭で不審がられることもなく、そういう意味では大事なことを教えてもらったのだと思う。
彼に云われなければ、気配を消すなどということは考えなかったろう。
そして幾つかの集落を渡り歩いても、何の噂を聞くこともない。
絶対に海の近くだと思ったのが間違いだったようだ。
ザキーレが一緒なら、聖水の近くであれば何処でも暮らせる。
海の場所を替えるのではなく山へ向かってみようと、遠くに見える山の峰を目で追った。
季節は幾度も巡り、再び春になっていた。
山の白い桜が一斉に咲き誇っている――。
≪見つける時というのは、あっけないものだな≫
独り言はザキーレに届いたようだ。
山の中腹の更に奥、その郷はあった。
下から上がってゆくと川の流れによって、空気が変わっているのが分かる。
ジュラの言葉に気付いたザキーレが小高い丘に立ち上がり、まるで自分を迎えるように待っていた。
「誰だ」
≪空間の河に居た者だ。素顔を晒した方がいいか≫
仮面の手をかけると、取るなという声がした。
振り返ると、伽耶が歩いて来るのが見える。
「俺はお前を知らない。でも伝承されたことは知っている。だから仮面を取るのはやめて欲しい。この郷に何の用だ」
丘に揃った男三人の姿は、まるで人気者の集まりのように見えた。禍々しいまでに美しいと表現される露智迦、優しいなかにも勇敢な姿を見せる伽耶、そして人とは思えぬ程の整った顔が見え隠れする仮面の男。
≪リューシャンとザキーレを天上界の長の許へ≫
その言葉に違和感があった。
「嘘をつけ。あの長老たちが私達を受け入れる筈がない。何の冗談だ」
≪ザキーレ。言葉を正確に聞け。天上界に戻るのではない。龍族との脈のある場所に行き、長の声を聴け≫
無言の時は、長く続いた。
「私は、もう龍族ではない」
≪それを信じろというのは無理な話だな。二人を捜している時に青龍に会った。随分弱っているようだった。すると彼が話してくれた。次の東方を守るのは露智迦になると≫
ジュラは、そう云って懐から小さな包みを取り出した。そしてそれを露智迦に差し出した。
「これは…」
≪青龍の証しだな≫
露智迦は中身を元のように包み直し、確かに預かったと頭を下げた。
「彼は、まだおられるか」
≪この奈良の地は居心地がいいそうだ。もう数年なら、と云っておられた≫
そうか、と露智迦の口が動いたことを確認すると、ジュラは話した。
≪了解は貰った。青龍の水鏡を使って長に連絡を≫
「それを迦楼羅は望まない」
伽耶の言葉だった。
≪迦楼羅とは、リューシャンだな。ザキーレが露智迦。何故、望まぬと言い切れる≫
「迦楼羅は人だ。龍族とは関係がない」
ジュラの顔に憂いが浮かぶ。
人として生まれ、この世に留まる。
ジュラの中の哀しみが辺りを支配しようとしていた。
その時だった。
≪自分の感情を暴走させるのは、やめてくれ≫
ジュラの瞳に、あの日別れた時のままのリューシャンの姿が映った。
≪リューシャン…≫
「その名は好きじゃない。その名に関わることは何も知らない。その名に纏わることなら去れ」
ジュラは気持ちを鎮め、仮面を外した。
露智迦に負けず劣らずの、禍々しさを含んだ美しく人とは思えぬ姿が現れた。
「お前… 白虎様に会ったのか」
外した仮面に白虎様の封印の気配があることに、露智迦が気付いた。
≪お前たちに見えている真実の姿を、この仮面に封じて戴いた。会いたかったのは、お前だ。リューシャンという名でも迦楼羅という名でも関係がない。お前に会いたくて舩を沈め下りて来た≫
その言葉に露智迦と伽耶は息をのんだ。
空間の河の舩を沈めたというのか…
しかし迦楼羅の反応だけは違っていた。
ジュラのその言葉に優しく微笑んだ。
「ならば会いにくればいい。私は露智迦の許に必ずいる」
極上の笑顔を見るのは露智迦だけだと、伽耶は長く思っていた。
今、それを自分の為ではなくとも伽耶は見ている。
迦楼羅の真実の顔だ…
「お前、名は」
伽耶が聞いた。そして彼は答える、迦楼羅に向かって。
舩の舵を取っていたのなら、水の上の方がいいだろうと言い出したのは迦楼羅だった。
「取って置きの場所を教えてやる。そこに新しい舟を作って暮らせばいい」
近いからいつでも会えるし、と付け加えることを忘れなかった。
ジュラの目に初めて涙というものが流れた。
熱い想いは届いたのだろう。
≪お前を見守ろう。誰にも見られぬ花舟に身を隠す。それで許してくれぬか≫
迦楼羅が露智迦を見る。
ジュラもつられるように彼を見た。
「好きにしろ」
どんなにぶっきら棒に言った言葉だったとしても、その本心は届いてくる。
≪これからは迦楼羅と露智迦と呼ぶことにする。龍族の長との件は一先ず保留だ≫
誰からともなく笑いだした。
迦楼羅が、龍族の長を後回しなど聞いたことがないと言えば、露智迦が、お前のせいだと掴みかかり抱き寄せている。
会えぬと思っていた二人に会えた。ジュラはたった一つの願いが叶ったことを、誰に感謝しようかと考えていた。
「ジュラ。お前、本当に龍族か。何か違う空気を感じる。でも今日よりは友だ」
露智迦が迦楼羅とふざけたままで、そう言った。
≪たった独りで居た。リューシャンが初めての友になってくれると言った。今日、また友が増えた≫
「なら、友の一番乗りは私だ」
露智迦の腕のなかで、リューシャンの名を嫌うという彼女が言った。
≪天上界の玄武、天界の白虎、地上界の青龍、そしてシヴァ。全部、味方につけてしまうなんて、お前って最強だな≫
少しおどけて云ってみた。
「ジュラ。お前って控えめだな。空間の河の者の名も列ねておけよ。迦楼羅にはその方が有り難味が実感できるから」
伽耶が言いながら肩を組んでくる。
「一つだけ、いいか」
何だ、というつもりで伽耶を見た。
「お前は仲間になった。何か困ったことがあれば相談しろ。今のように言葉を飛ばせば届く。ただし人の前では口を使って話をしろ。呪術師にされたら人が寄ってくるぞ」
それもそうだ、と今度こそ本当に皆で笑い、ジュラの地上界での暮らしが始まるのだった。
それはまた別の機会の、お話ということで…
【了】