大昔。
空に我等、龍神が多く飛び交ふ、その下に――
ジュラは悩んでいた。
地上界に下りたものの、迦楼羅のお蔭で人界に入ることは殆んどなく暮らしていた。
黄竜にも出遭ったが、彼はその後現れない。
人の言う幸せの意味を理解できるような、そんな気がしてきた頃。ジュラは、ふと龍族の長との約束を思い出した。
迦楼羅に出会ったら、すぐに知らせるべきだったかもしれない。
でも、あの時はできなかった――。
「何か悩みでもあるのか?」
舩を降り竹林に隠れるようにいたのに、迦楼羅には簡単に見つかってしまう。これで竜だと云っても信憑性は少ないな。
「いや。いい機会だ。お前に話がある」
彼女は林の中へやってきて、自分に寄り添うようにストンと座り込む。その姿は、まるで空間の河の畔にやってきたリューシャンにそっくりだった。
やはり生まれ変わりというのは本当なのだろうな。
「仮面をつけている姿を見たのは久し振りだ。それで話とは」
「迦楼羅は、龍族が治める天上界という場所を知っているか」
あえて、ゆっくりと話す。そこで言葉を一旦切り、彼女の顔を覗きこむ。
「お前には本当のことを言うべきなんだろうな…」
「できれば」
迦楼羅は少しだけ微笑んで、分かったと自身を納得させるように呟いた。
ジュラは黙っていた、彼女が口を開くまで。
どのくらい時が経ったろうか。
迦楼羅の瞳が金色に輝いていた――。
「誰も私には本当のことを語らない。だから何も知らされてはいない。でも…」
そこで彼女は言葉を失う。
「無理をする必要はない。ワタシが話そう」
すると、大丈夫だと迦楼羅は笑う。
「此処でなら話せる。此処は黄竜の場所だから」
気を取り直し、再び迦楼羅は言葉を繋ぐ。
「誰に聞くことがなくとも、朱雀としての記憶が全てを教えてくれる。リューシャンの母親のことも。人の父のことも。そしてリューシャンという天人のことも」
やはり、そうだったか。
「なら。簡潔に話そう」
ジュラはできる限り、感情を抑え話した。
長が何故、リューシャンを天界へ送ったのか。ザキーレと何があったのか。そして舩を沈めようと龍族が決めた時、長と交わした約束のことを。
「青龍の水鏡は特別な筈だった。彼の域にある水ならば、必ず天上界の青龍の水へ繋がると思っていた。でも無理だった」
この地の青龍は老いていたせいかとも思う。ただ其々の水が少しずつ変わり、水鏡を映さなくなったのかもしれないとも思った。
「憶えているか。最初に話した龍族の長のことを」
迦楼羅は頷いた。
結局、今、青龍の証しを持つのは露智迦だ。
天上界の青龍へ水鏡を使えるのは、たぶん露智迦だけだ。
「もし露智迦が拒否をすれば、もう手立てはなく、ワタシは長との約束を果たせない。その代わり、露智迦の居所も迦楼羅の居所も知られない」
そう話すジュラの顔を、迦楼羅はじっと見つめていた。そして、その頬に手を伸ばし仮面を剥ぎ取った。
「ジュラは約束を果たしたいか」
正直、分からなかった。
今のまま、静かに暮らしてゆきたいとも思う。龍族に恩義はないしな。ただ長だけは、あの天上界の中でたった二人しかいなかった友なのだ。
「迦楼羅にはできないことも私にはできることがある。リューシャンという娘は龍族だと云ったな」
ジュラは頷いた。
しかし、どうするつもりだ。迦楼羅であってもリューシャンであっても、朱雀の証しを持つ身であることに代わりはない。
迦楼羅は舩の浮かぶ水へ向かい、ジュラも後を追った。
黄竜が与えたという湧き水。その基に迦楼羅が立つ。
すると水が生き物のように動き出した。そして迦楼羅の躯を巻くように水は這い上がってゆく。
一体、どうなるんだ。
≪ジュラ。天上界の水鏡は何処にある≫
水の中から迦楼羅の声が飛んできた。
「ワタシが使っていたのは、東海にある水瓶だ」
ただ、その場にいなければ視ることはできないかもしれない。
≪水に記憶させてやる。ジュラとザキーレとリューシャンが無事だということだけでいいか≫
「充分だ」
水は更に激しく渦を巻き、そして一瞬の後に元の静かな川に戻った。
「やっぱり、お前龍族だったんだな」
水の上に立つ迦楼羅に向かって、思わず呟いていた。
「当然。でなければ、黄竜の結界になど入れない」
二人はその日遅くまで、この結界の中で過ごしていた。すると何年振りかで黄竜がやってきた――。
≪俺の結界内で龍族の水に繋ごうなんてする奴、お前くらいだぞ≫
「でも、そのお蔭で水の脈は分からない。龍族が此処を襲ってくることもない」
迦楼羅は悪びれず、そう言った。
黄竜は大笑いをし、暫く此処に滞在すると云う。
それはまた別の機会の、お話ということで…
【了】