大昔。
空に我等、龍神が多く飛び交ふ、その下に――
ゆらりと空気が揺れ、その真っ暗闇の空間から一頭の虎が現れた。
のそりのそりと近づいてくるその虎は、全身から怒りの炎をあげているように見えた…。
≪お前は誰だ≫
「りゅ…龍牙」
≪そやつに何をした≫
「何って、何も…」
虎は黙って近づいてくる…
恐怖が這い上がってきた。
それでも、虎は幻影にしか思えない。
周りの空気が熱くならないし、すぐ脇にある木々に引火するような気配もない。
それに答えを持たない問いには答えようがない、と謂いたいが、言葉が喉の奥に張り付いたように出てこない。
虎は、腕に眠る迦楼羅の許へやってきた。
しどろもどろに答えようとするものの何も謂えないまま、虎はそこで立ち止まり見透かされているような眼で睨まれる。
幻影だと思ったのは間違いだ。彼は、ちゃんと此処に在る。
しかし本当に何もしていない。
一緒に木の実を取り、川沿いに温かな水を掘り、そして共に時を過ごしただけだ。
「こちらの方が聞きたい。迦楼羅はどうなってしまったのかを」
≪お前、仙か≫
虎の聲が聴こえている時点で気付かれているとは思っていたけれど、こう聞かれると答えに窮する。
「究極を言えば、まだ半人前ちょいだな」
≪誰を、師と仰いでいる≫
「消えた小角を」
虎が、その答えに満足したように頷いている。
何だか変な気分だ。
突然、消えた師匠を知る者はいない。なのに、この虎は知っているようだ。
≪小角は死んだ。今は彼奴には生き難い時代になってきたのだろう≫
「ご存知なのですか」
恐る恐る聞いてみた。
すると虎の体躯から、再び炎がゆらりと上がった。
≪人界は、少しずつ壊れ始めた。天界も天上界も、そして様々な星も。人はこの地上を我が者顔で荒し、魑魅魍魎を追い払った。やがて神の存在も忘れられる。陰陽師の道にだけ僅かに残るものがあるだろう≫
この虎は、一体何を云っているんだ…。
龍牙の顔に、不可解な思いが過ぎる。
≪地下に暮らす者も、闇に暮らす者も、いつか人を襲う。その時、人はどうするだろうな≫
「人は、人智を尽くして乗り切るだろう…」
刹那、迦楼羅が動く。
そのまま、ふわりと浮き上がり空中に留まった。
『人は神を忘れ、尚、神に縋る。超常力を嫌悪し、尚、利用する。そして人は、この星を人だけの物と豪語し、尚、星を傷つけるのだ』
「迦楼羅…!?」
彼女の瞳が金色に光っている。
一体、何が起こっているんだろう。
≪龍牙と云ったな。迦楼羅は今後、眠りと目覚めを繰り返すだろう。そして目覚める度毎に超常力を増してゆく。支えきれるか≫
超常力…
増してゆくって…
「迦楼羅って、何者ですか」
≪多くの神に愛された、少しばかり長寿な人というだけだ≫
そう虎が云った時、周りの景色が突然変わった。一瞬にして竹林に飛ばされたように。
此処は何処だろう。
気を張り巡らすと、見えていないものが浮かんでくる。
虎に龍に亀に、そして色男が二人。
≪我は白虎。西の守り主だ。そして東海の守り主が青龍、北山が玄武。そして、そこに立つ二人は、シヴァとヴィシュヌだ≫
龍牙は、途中から彼が四神の白虎だと気付いた。
しかし、この二人は判らない。
「シヴァ、ヴィシュヌ…」
≪本来、人の前に現れることはないのだが、迦楼羅だけは別だ≫
ヴィシュヌと呼ばれた彼が云う。
≪我など、更に不吉な存在だ≫
と、今度は一番色男の彼が云う。
不吉…とは何のことだろう。
『彼は、この世の全てを司る最高三神の独り。そして彼の司るのは世界の破壊。彼に愛された私は、自分の気持ち一つで星の一つ位消せてしまう』
迦楼羅…
『だから人と距離を置く。もう二度と誰とも関わらないと思っていたのに。どうやら龍牙だけは特別のようだ』
迦楼羅の言葉に、皆の姿が消えてゆく。
迦楼羅が望むのなら、手出しはしない。
そう云ったのは誰だったろう…。
これはまだ、遠い未知の話である――
それはまた別の機会の、お話ということで…
【了】