第一章

過去

10

 恋をする。人を好きになるのに時間は要らない。一瞬だ。
(あっ、いい)
 それだけで、恋に落ちてる。
 桔梗は、物語の中に出てくる科白の真の意味を、まざまざと思い知らされていた。

 ベッドに腰掛け、外を見ている桃子の姿に見惚れていた。
 ラブホのカーテンを開けるというのも何だが、色っぽい話がなければ単に普通のホテルと同じだ。桔梗はソファに深く座り、足を組む。
 そして、喫茶店で呑み込んだ言葉を改めて考えていた。自身充分に若い、けれど人生かなり揉まれてきていた。桃子に、言った言葉に嘘はない。そんな境遇をくぐり抜けた桔梗のアンテナが、何かをキャッチした。人を見る目には自信がある。
(桃子は何かを背負っている)
 そう感じた。とても重い、何か──を。
(悩みがあるのか)
 とストレートに聞こうか、とも思った。
 しかし桃子の放つオーラが嫌ったように感じて、その言葉を呑み込んだのだ。
 出逢って、まだ一日しかたっていない。
 でも充分だと思った。桔梗は改めて桃子に問いかけた。
「悩みは、何だ?」
 強い語調だった。中途半端な優しさは、必要ない。
 桃子は、きっと答える。

「悩みではありません。そんな段階は、とうに過ぎました」
 外へ視線を向けたまま、桃子は静かに答えた。もう、取り乱すことはないようだ。
「そりゃ大変だ」
 その言葉を聞き、初めて桃子の視線が桔梗に向いた。
「何故ですか?」
「悩みでないなら、相談に乗るという下心が使えない」
 クスッ。
 久し振りの桃子の笑顔だった。
「一つだけ約束をして下さい」
「何なりと」
「どんな事を聞いても、私の言うこと、逃げ出さないで最後まで聞いてくれますか?」
「勿論。望むところだ」
「有難う存じます。じゃあ」
「ちょっと待って」
「えっ?」
「そっち行ってもいい?」
「じゃ、私がソファに」
「じゃなくて」
(?)
「この距離で聞く」
 桔梗が、桃子の隣にドンと座った。顔を見る。目が合った。優しく微笑む桔梗が、そこに居た。
「はい」
 桃子は、答えた。そして、誰にも話したことのない全てを語り始めた──。

「父と母と私。まだ名前を“長岡桃子”といった頃が、多分一番幸せでした」
 と言う。
 父親は私服警察官、いわゆる刑事だった。それと両親は里親をしていた為、桃子には二つ上の義兄と一つ下の義妹が居て、総勢五人家族だった。
 桃子が小学校四年生の春、その父が死んだ。死因は何だったのか、と聞かれても桃子には答えられない。そもそも聞いていないのかもしれない。
 だから、どんなに思い出そうとしても、思い出せるのは、葬儀の後のことばかりだった。
 義兄と母は、毎晩いろいろな話をしていた。憶えているのは母が泣いているところ。義兄に、すがりつくように泣いていたように思う。義兄は六年生だったが、大人の男として残された男として母と家族を守っていた。
 そんなある日突然、知らない男たちが三人乗り込んできた。
 義妹は泣いて桃子にすがりついていたのに、男の一人がまさに猫でも放るように、桃子から引き離しポイッと捨てた。あまりのことに泣くことを忘れた義妹。母は、泣く事こそなかったが義兄にくっ付いていた。その義兄も、やはり男が畳に投げつけた。鈍い音がして、義兄がうめき声をあげる。駆け寄ろうとした桃子の体を、男が抱え上げた。
「私と母は、無理矢理大きな真っ黒い車に乗せられて、そのまま十文字の屋敷へと連れて行かれました。私に祖父がいたことを、その時初めて知りました」
 そして、その祖父が母を溺愛していることは、当時四年生の桃子にもすぐに判った。母は、すぐに祖父の元へと連れていかれ、桃子は離れの小さな部屋に入れられて、その後一週間。
「母は、私のところには来なかった」
 一週間後。桃子の前に現れた母は、見たこともない綺麗な服を着て、いい匂いがする。子供心にも、この人は少女だと思った。
「こんな人知らない、と叫びましたが、母には届きません。名前を呼んではくれますが、それは、機嫌の悪い友だちを呼ぶようでした。あれ、あげる。これ、あげる。うんざりしていました。義兄と義妹に会いたかった。でも、許されませんでした。父が死に、祖父の許に戻り、安心する場所だと思ったのでしょう。もう、私の知る母はいないと、その時思いました」
 それでも、子は親にすがるものである。
 漸く母屋に呼ばれた時、自分の母であることを思い出してくれたのか、と桃子は喜んで離れを出た。そして母の部屋へ入った途端、桃子は絶望するのである。絵本に出てくるような部屋が、そこにはあった。
「親であることを、やめたのだと思いました。こんな贅沢な部屋があるなら義兄と義妹を呼び戻してって、何度言ったか分かりません。でも二人の事が、母の口から出ることは一度もなかった。私は、自らの意思で離れの部屋へと戻り、そして、このことが私の運命を変えてしまったのです」

 母には、兄が一人と妹が二人いた。桃子にとっては伯父、その人物は早くに家を出ていて、幼い頃、母は家を継ぐのは自分だと祖父に聞かされ育った。
 しかし、母も家を出た。同じ頃、末娘の叔母が事故死し、残った叔母が跡を継ぐように、まわりからは思われていたようだ。叔母の方も養子を取って家に残っていたし、会社の重役たちも“暗黙の了解”というヤツだった。
 ただ、いつまで待っても祖父はその事を口にすることはなく、その為叔母は一日でも早く子供の出来ることを望んでいた。
 しかし、何年経っても子は授からなかった。名門の家名が邪魔をし病院に行くこともままならず、本を読み漁っては勉強をしていたようだ。
 それが、ある日突然不妊治療に行くから付いて来い、と。
「叔母は、何故今になって、とも思ったらしいですが、そんなことよりも、これで子供が出来ると喜んだそうです」

「ちょっと、いい?」
「私の話、わからないですか?」
「否、そうじゃなくて、桃子は誰かに聞かされた話をしている。自分の経験したことだけじゃない。その人は、誰?」
「・・叔父です。婿養子になった叔母のご主人」
 桔梗は、ほんの少し躊躇したのち勇気を出して聞いてみた。
「いつ、聞いたの?」
「いつ? ずうっと聞いてきました。もう、五年以上・・」
「そう‥。続けて」

 あらゆる検査を受け治療を始めたものの、結果は「特に問題ありません」と。
 そのまま通院する道もあったというのに、ここでも世間体が邪魔をして、自然にまかせても大丈夫だということで、治療もやめてしまった。
 しかし結局、駄目だった。
 毎日毎日、子供子供と言われているうちに、叔父はだんだん自分が人間じゃなくなっていく気がして、まさに種馬という言葉こそ自分にピッタリだ、と思うようになっていった。
「そんな時、私たちが戻ってきた」
 祖父が叔母を見離したのだと、誰の目にも明らかだった。

「私は五月に転校し、ずっと長岡性のままでした。その年の十一月十七日、その日は母の誕生日でした。ガーデンパーティが盛大に開かれ、私たちが十文字家の人間になると招かれた人に対し祖父は宣言をしました。何も聞かされていなかった私は、突然まわりに人垣が出来て驚き、その場を逃げ出しました。自分の部屋に閉じ篭り、布団を被って泣きました。泣いて泣いて泣き続けて、その時でした。叔父が部屋に入ってきました。私は、ベッドを下り机に向かって歩き出そうとしましたが、叔父はそれを拒み、何も言わず、私を再びベッドに座らせると、何も言わないまま、私の洋服を脱がしたのです」
 ふう、と桃子がひとつ大きく息を吐いた。

 驚きのあまり、言葉を失った桔梗が、何かを言おうと口を開きかけた時、桃子は人差し指で「しっ!」と指を立て、それを制した。
 桔梗は右手で了解の合図をしベッドを離れ、冷蔵庫にある缶ジュースを二本、手にして戻ってきた。プルタブに指を掛ける。
 プシュ。
 炭酸の抜ける音と共に、上に持ち上げられたそれを今度は下へと押さえ込む。男の人が缶ジュースを開けた、それだけの事なのに、
(色気があるな)
 と桃子は思っていた。黙って差し出された缶を受け取ると、ほんの少し口をつける。
(うん、美味しい)
 桔梗は、一本を一気に飲み干した。

著作:紫草

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