第一章

揺れる想い

9

 一筋の涙とともに、桃子は言い切った。
「私は・・誰とも恋をする資格が、ありません」
「どういう意味?」
「ごめんなさい。今日はありがとうございました。もう私に関わらないで下さい。ご馳走さま。さよなら」

 一気にまくしたて、呆然としている桔梗を残し桃子は店を後にした。
 グラスを取りに上がってきたマスター。
「上手くいったか?」
 その言葉に、ハッとする桔梗。
「いえ…」
「今なら、まだその辺歩いてるだろ。追いかけろ」
 見上げると、マスターのウィンクする顔がある。
「マスター、ごめん」
「つけとくよ。ほら、早く行け」
「うん」
 桔梗もまた、店を飛び出した。
(やれやれ、世話のやけることで)
 何てことはない。年の功ってヤツだった。あの桔梗が女の子を連れてきたなんて、過去にはない。きっと一目惚れしたに決まってる、とマスターは感じとったのだ。

 果たして、まだ百メートルと離れていない所を、桃子は肩を落とし歩いていた。声をかけずに近づき、直接桃子の左腕を取る桔梗。
 驚いて振り返った桃子の顔は、涙に濡れていた。
「話をしよう。もっと、いっぱい。寮にはTELして、後で外泊届けを出せば帰らなくてもいい。それで‥」
「何故、そんなに私にこだわるんですか? 放っておいて下さい」
 つかまれた腕を振りほどこうとして、桃子は左腕に力を入れる。
 しかし、桔梗はその腕を離そうとはしなかった。
「クラスの子は、藤村さんのことを“桔梗様”と呼んでいました。きっと有名な方なのでしょう。わたしの事など、ほっておいて!」
「そうはいかない! 俺の目に映るのは、桃子だけだから」
「屁理屈です」
「何とでも言ってくれ」
 一瞬、ひるんだ。
「本当の私を知れば、きっと幻滅するわ」
「じゃ話せよ。聞いてやる」
 息を呑む桃子。そして瞬時に顔面蒼白になる。微かに震えながら、蚊の鳴くような小さな声で桃子は答えた。
「い‥言えない」
「どうして! 何を聞いても驚かない。これでも、やわな人生送ってないよ。だから、ちゃんと話をしよう。何を苦しんでいるのか判らないけれど一人で抱え込んじゃ駄目だ」
 口を真一文字に結び、桃子は首を横に振った。そして今度は、自らの右手で桔梗の手を解いた。
「藤村さん、有難う。そう言ってもらっただけで充分です」
「待って。静かな処へ行こう」
 無言のまま、ノーの意思表示をする。
「何を怯える? 何か、大きな壁がある。それ乗り越えろよ。でなきゃ、先に進めないぞ」
 少し落ち着きを取り戻した桃子が、改めて顔を上げる。
 そこには微笑む桔梗の顔があった。その瞬間まで、逃げ出すことばかりを考えていたのに。
 でも、
「話しても、いい・・の?」
「勿論。全部聞くよ。一晩かけても」
「一晩?」
「あゝ」
 頷きながら、力強く答えてくれる。桃子の中で、何かが動き出したような気がした。
 ごほん、と咳払いをひとつ。そして、
「ホテルってさ、Hなしだと、これ以上ないくらい静かな密室で秘密を守るには、もってこいだと思わない?」
 と、パチンとウィンクをする桔梗。
「ホテルって、ラブのつくところ?」
「いやなら、ファミレスか、公園だな。あと学校に忍び込むとか」
「学校?」
「意外と、見つからないものだよ。ただ、まだ、ちょっと寒いかも」
 聞いて、瞬きをゆっくり一回。
「ラブのつく処にします。この時期、外で夜を明かすと風邪引きますから」
「確かにな。じゃ、まず外泊連絡だ」
 十分後、二人は島で一番大きなホテルの一室に居た。

著作:紫草

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