第一章

8

 翌日、放課後。
(昨日の人、本当に来るのだろうか?)
 身の回りの物を片付け、帰り支度をする桃子は、昨日の桔梗の言葉を気にかけていた。
(きっと忘れてる・・よね。でも、もし本当に来たら…)
 悩むだけ悩み、帰っても用があるわけではないのだから、と暫時教室に留まることにした。
 同じクラスになった京田が、桃子の元に近づき声をかけてきた。
「十文字さんって、あの、十文字家の親戚筋の人なの?」
 あの、とは何だ。と思いながら、そのことには全く触れず、かといって、にこりともしないで答えた。
「あの十文字とは何のことですか?」
「あらっ、違うの? なぁ〜んだ」
 そういうと京田は桃子の元を離れ、帰り支度を始めた。
 ところが一度は興味を失ったようだったのに、再び声をかけてきた。
「十文字家って、先代と今のおじい様がやり手の方で事業を拡大されたとか。でも、此処のことは否定的で、誰も入学したことがないんでしょう? じゃ、やっぱり、違うのかしら」
(何この人・・)
 桃子は、相手をするのをやめた。
 しかし京田は延々と話し続け、そして‥。

 ガラッ!
「悪い、待たせた」
 と桔梗が入ってきた。
 京田の悲鳴にも似た声がまるで聞こえていないように、桔梗は桃子のところに近づいてくる。
「いなかったら、どうしようかと思った。じゃ、行こうか」
「はい」
 行こうとする桃子の腕を、京田が引っ張った。そして小声で、
「ちょっと、どういう関係?」
 と、少し威嚇をこめて聞いてきた。
「・・・」
「桔梗様に声をかけてもらえるって、どういうこと?」
「・・・」
「何とか言いなさいよ」
 一方的に言われていた桃子。桔梗が絶妙なタイミングで間に入った。
「失礼、急ぐので」
 そう言われて真っ赤になった京田は「ご免なさい」を連呼する。
 その声を背に、二人は教室を後にした。姿が見えなくなると、京田は何を思ったのか、大急ぎで教室を飛び出し、学生がたむろしている某ファーストフード店に飛び込んだ。
 元々スピーカーというあだ名の持ち主である。桔梗が桃子を迎えに来た様子は、ドラマチックに脚色され、噂はあっという間に広まっていった。
 そんなことになっているとは思いもよらぬ二人は、至って普通に校内を歩いていた。そして一通りの案内が済んだ後、桔梗は桃子を外へと連れ出した。

「あの‥」
「奢る。入学祝いにジュース一杯!」
 そこで、パチリとウィンクひとつ。
「・・・」
「!!」
 桃子を見て、桔梗は驚いた。
「何!? 泣いてるの?」
「ごめんなさい。あの、私・・」
「喫茶店に入る、それとも公園とかの方がいい?」
 大粒の涙は、すぐには止まりそうになかった。かばんの中にハンカチを探すのだが、焦ってしまいなかなか出てこない。
 桔梗が、ポケットにあるハンカチを差し出した。受け取りながら桃子は答える。そんなに泣いているのに、声は全く乱れることなく、
「お店に行きます。連れて行って下さい」
 借りたハンカチに顔をこすりつけ、ほんの少し笑った。
「了解」

 二人は、桔梗の知り合いの店に来ていた。
 小さな喫茶店。
 入ってすぐに中二階への階段があり、桔梗は迷わずそれを登る。吹き抜けの天井は高く、実際の大きさよりも、ずっと広く感じられた。置いてあるものも木製品が殆どで、使われているカーテンやテーブルクロスも、茶系統に統一されていた。
 桔梗は、ちょっと暗い店だというが、桃子には静かで落ち着ける居心地のよさそうな店だった。
「マスター、とびっきり美味しいオレンジジュースを二つ。あっ、オレンジ、飲める?」
「大好きです」
「そ。よかった。ここさ、ジュースはオレンジしかないんだ」
 下から「うるさいぞ〜」と声がする。待たずして二杯のグラスを持って、マスターが上がってきた。
「スペシャルオレンジジュースですぞ。ごゆっくり、どうぞ」
 桃子は、マスターに礼を言った。
「いいね〜、最近の女の子は礼を言うなんてことは知らないと思っていたよ」
 トレーをお腹の前に片手で抱え、桃子の頭を軽く撫でた。
「お嬢さん、顔もいいけど心が綺麗だ。桔梗君、大事にしなさいよ」
 桔梗は「わかってるよ」とか何とかボソボソ言っていた。

「入学おめでとう! 乾杯」
「有難う・・存じます」
「何だよ。とってつけたような、ありがとうだなぁ」
「あ、ごめんなさい」
 桃子は慌てて、何かを言いかけた。
 しかしその言葉を聞く前に、桔梗が言葉を奪った。
「桃子、おめでとう」
 それまでと違い、穏やかで静かな声だった。
 かみしめるように、ゆったりと話す。
 桃子はその言葉を聞いた刹那、何処かで何かがプツンと切れたような気がした。張り詰めていたものが一気に解けて、再び溢れ出す涙をどうすることも出来なかった。
 桔梗は黙って、それを見ていた。
 静かに流れる涙をあえて拭うこともせず、微笑みながら、そこに凛として居る桃子の姿を(美しい)と見つめていた・・。
「桃子は泣き虫か?」
「いいえ。人前で泣いたのは、多分父の葬儀以来です」
「お父さん、いないのか?」
「はい」
「じゃ、俺ってすごぉくラッキー」
 何? という風に眉間にしわをよせ、桃子は桔梗を見た。
「だってさ、桃子の涙、綺麗だよ」
 そう言いながら、右手を桃子の頬へと伸ばす。そして今は、その筋のみを残す頬に触れる。その間、桃子の心臓は早鐘のように鳴り続けていた。
 桔梗の視線は、桃子の左目をかすっている。目が合っているようで合っていない。
 でも、合っていないようで、合っている。ドキドキ感は、単に目が合っている時よりも遥かに高い・・。

「桃子は」
 そこで、一度言葉が切れる。思わず目を留めてしまう。
「何ですか?」
「ク、クラブ、どこ入るの?」
 別の言葉をのみ込み、出てきた言葉がこれ。それも棒読み。
 桔梗は心の中で、(どっぴょ〜ん)と叫んでいた。
(バレバレだよ、カッコわりぃ)
「入部しなければいけませんか?」
「いや、絶対じゃないけど」
「なら、入りません」
 図らずも会話が進み驚く思いと、「入らない」という言葉にショックを受けている自分自身。気まずい時が流れた。
「藤村さん」
「んっ?」
「本当は何て言いたかったんですか?」
 思いっきり見開いた瞳を閉じる術を忘れたように、桔梗は強張った表情のまま桃子に伸ばしていた腕を引っ込めた。
「藤村さん?」
 暫く、桔梗は言葉を失っていた。

「大人たちが――」
 桔梗が、残っていた水を飲み干すと、おもむろに口を開き始めた。
「大人たちが、何故、好きだ嫌いだと大騒ぎをして、人を傷つけたり自身傷つけられたり、そんなくだらない事を繰り返すのか。漸く分かった気がする。理由なんて要らない。今は何処からこんな想いが湧き上がってくるのか、自分でも理解出来ない。ただ俺は、どうやら桃子のことを誰よりも特別に想っているらしい。これが、恋をするってことなんだろうか‥」
 桔梗の声は、やっぱり穏やかに響いた。
「桃子」
「はい」
「好きだよ」
 ──桃子の瞳から、再び涙がこぼれた…。

著作:紫草

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