第一章

消せない記憶

11

 空気が、淀んでいるのがわかった。その中で桔梗が重い口を開いた。
「悪い。考えた以上に話が重くて、その、桃子の事、何にも知らない自分が口にした言葉に対し反省した。本当にごめん。俺、このまま聞いてもいいのか?」
 どういったものか、と桃子は考えていた。
 やめるのなら、それでもいい。多分、自分から離れていくだろうところまでは話した。
 覚悟は決まった。
「止めましょう。もう充分です。ここまで聞いて戴いて有難うございました」
「待てよ」
 桔梗は言った。
「聞くのが嫌で言ったわけではない。話す桃子の方が辛いだろうと思ったからだ。話せるのなら聞く。最後まで話した方がいい」
「藤村さん‥」
「大丈夫。ちゃんと理解している」
 桃子は桔梗の表情に安堵し、小さく頷き、残っていたジュースを飲み干した。瞳が涙で潤み、今にもこぼれ落ちそうだった。
 再び桃子が言葉を繋いだのは、ジュースを空にしてからたっぷり十分以上の時が経ってからだった。

「文字通り、私は叔父に裸にされ、抱きしめられました」
 幼かった桃子は、それが何を意味するのか、理解出来なかった。
 そして、その日から殆ど毎日のように叔父と一緒に寝るようになるのだった。
「たった、ひとつ。私にとって不幸中の幸い、ともいうべき事柄は叔父が性的不能者になっていたことでしょう」
 桃子は、誰か別の人の話でもしているかのように、淡々と言葉を繋いでいく。聞いている桔梗の方が、何だか切なくなってしまい、時折鼻をすすっていた。
 叔父、十文字隼太は、やっている事とは裏腹に桃子をそれは大事に扱っていた。欲望というものからすれば、それは少し違ったのかもしれない。ただ、自分勝手な解釈であることには変わりはなかった。
 家のこと。自分のこと。そして叔母のこと。わかる筈などないのに、細かく詳しく話して聞かせた。ほかにも隼太は多くを話した。桃子が、
(叔父様、嬉しそうだ)
 と思うほど。ずっと、何年も。
 桃子も、隼太の話を黙って聞いた。
 最初から何故か恐怖を感じたことはなく、それが当り前のようになっていった。ただ気持ちの中で、自分は汚れているという思いだけが重く圧し掛かっていくだけだった。
 そんな生活を続けても、桃子は隼太のことを誰にも告げなかったし、誰も二人の関係に気づく者はなかった。

 しかし、遂にその日はやってくる。
 明日が高校入学式、という日の夜。桃子の部屋に入る隼太の姿を、祖父が見つけたのである。
 翌日、桃子は祖父に呼び出され、そこで決まっていた高校への入学が取り消されたことを聞いたのだ。
 それまで、いつも一方的に言葉を掛けられるだけの存在だった為、その時も桃子は何と言ったらいいのか分からないまま、黙って座っていた。そして、高校へは行けないのだという事だけが真実として残った。
 母屋の客間に入り、数日をそこで過ごし、一昨日再び祖父に呼ばれると今度は、翌朝家を出る事になるので荷物を作るようにと告げられたのだった。
「そして編入試験を受け、ヘリに乗せられ、そして流れ作業の最後に藤村さんに辿りつきました。祖父からの伝言で、私がここに来ることは誰にも知らせない。お前からも決して連絡を取らないように、と」
 桔梗の瞳から一筋、泪が零れ落ちた。
「私は、存在してはいけない子供です。誰かに“おめでとう”という言葉を貰うことなどなかった。だから、藤村さんに“入学おめでとう”と言われて、嬉し過ぎる気持ちと驚きとでびっくりして、ただ自分でも泣くとは思いませんでした」
 桔梗の泪は綺麗だった。男の人が泣くというのは(静かで優しい)と桃子は感じていた。
「これで、わかったでしょう。私は汚れています。だから、これ以上私に関わる事はやめて下さい」

 桔梗は、その問いにはすぐには答えず、ベッドから離れ洗面所に消えた。水が勢いよく流れる音がする。
 やがて、タオルを手に桔梗は戻ってきた。そして、
「何故?」
 と桃子に問いかける。思いがけない問いに、桃子はすぐには返事が出来なかった。深呼吸をして、お腹に力を入れる。
「説明が足りなかったのでしょうか? 判っていますか。私は数年間、性的な関係を続けた叔父がいて、今家から追い出された根無し草ですよ。私には関わらない方がいい」
 今度は、桃子が冷蔵庫へ行き、缶ジュースを二本取った。
 ベッドへは戻らず、ソファに体を沈めていた桔梗に一本を渡し、自分も歩きながらプルタブを引いた。座る前に少し飲み、暫し、桔梗に背を向けたまま立っていた。
「落ち着いたか?」
 桔梗の低く、それでいて涼やかな優しさのこもった声が響く。その声に反応し、ゆっくりと振り返り桃子の視線が桔梗を捉えた。
「今までの桃子は理解した。でも、今までがどうであれ、俺はもう桃子に気持ちを奪われている。だから、関わるなと言われて、はい、そうですか、と引き下がれるもんじゃない。俺を莫迦にするな」
「藤村さん‥」
「そんな家なら、頼りたいとは思わないだろ。俺の方が余程役に立つ。これからは俺だけを頼りにしろよ」
 桃子は聞きながら、力が抜けていくのを感じていた。力なくベッドに腰掛ける。
 その時、流れていった時間は、きっと浄化システム付きだったのだろう。桃子は桔梗の視線に暖かいものを感じていた。自分の中の汚れたものが、どんどん外へ流れ出ていくような、そんな気がして心の洗濯をしてもらっているような不思議な感じ。

 暫時、二人は何をするでもなく、何を話すでもなく、ただ互いの存在を確かめるように視線を合わせていた。その静寂を破ったのは桔梗の方だった。
「桃子は綺麗だよ。マスターも言ってたけど、まず何より心が綺麗だ。その澄んだ瞳も綺麗だ。体だって、今時の男あさりをしてるような女たちを見てみろ。何も考えず誰にだって足を開く。そいつら、何にも思ってない。桃子の気持ちそのものが、綺麗だ。確かに今までの時間の重さは、男の俺には計り知れない。でも、その叔父さんの事を話す桃子の顔は優しかったよ。この学校に来ることは誰にも知らさないと言ったよね。それは、それなりにお祖父さんの優しさなんじゃないかな。少なくとも、ここにいる限り、桃子は一人の女子高生として普通に生きていけるよ」
(・・・考えた事もなかった。あのお祖父様に、私に向けられる優しさがあるなんて)
 桃子は、これがバレると世間体が悪い、つまり母親の肩書きに傷がつくという理由から“臭い物には蓋をしろ”の言葉通り、単に追い出されたと信じて疑わなかった。否、確かにこちらの方が真実かもしれない。
 だが、桔梗の言う通り、それが祖父なりの優しさだと取っている方が、気持ちがいくらかでも軽くなる。
(なる程)
 一人では、どう転んでも思いつかない発想だった。
「有難う。藤村さんのお蔭で人生まだ捨てずに済みそうです。でも私のことは、どうぞそっとしておいて下さい。京田さんの目を思い出すと、藤村さんがどんなに人気のある人かは容易に想像がつきます。私は静かに暮らしたいだけです」
 再び、静寂が訪れ、桃子は満足していた。
 赤の他人に、全てを話してしまったというのに、気持ちはすっきりしている。何故話そうと思ったのか、自分でもわからなかった。ただ桔梗なら、受け止めてくれるような気がした。彼は、そんな雰囲気を持っていた。
 反面、桔梗の表情は曇っていた。関わるな、という言葉にまじめに傷ついていたからだ。女が邪魔だと思うことは多々あれど、邪魔者扱いされるなど、桔梗には経験がない。存在を否定されたような気がして、これまで、自分が同じ言葉を吐き、泣いて帰った者たちに少々同情しているくらいだ。
 しかし、ここで何も言わないと、きっと桃子は離れていく。焦りばかりが先走って、うまく言葉が出てこなかった。
「確かに、そう思われても仕方ないだろう。しかし実際人が求めているのは俺ではなく、友人のほうなんだ。」
「友人?」
「この島の大地主みたいな家の跡取り」
「それは凄い」
 桃子は、素直に驚いていた。
(こういう人が、もう一人?!)
「俺は、家族ぐるみのつき合いで、大昔は主従関係だったらしいけれど、今じゃ単なる友人さ」
「でも、その人の人気だけでは桔梗様とは呼ばれないと思います。きっと藤村さんは、ご自身のことを“もてる”とは言いたくないようですね」
「だから違うって。そんなに俺を避けたいのか?」
「はい」
「えっ?!」
「あっ、ごめんなさい。あの〜何と言ったらいいのか、私は、その・・」
「じゃ、俺をちゃんと好きになれ!」
(・・・・・・)
 なんという理論だろう、流石に返す言葉を失った。
「文句あるのか?」
「・・・」
 口だけは、開いてみたものの、やはり言葉は出なかった。答えようがない。困った顔をしたまま下を向いて黙っていると、桔梗がポンと頭を叩く。
「困らせる心算じゃない。安心しろ。俺が嫌いなら近づかないから」
 伏せていた瞳を、ゆっくりと桔梗に向ける。
(こういうのを“イケてる”と言うのだろうな〜)
 でも・・。
「顔のいいヤツは、性格が悪い」
「何だよ、それっ」
「叔父の受け売りですが、叔父がまたハンサムな人で自分のことを、そう言ってました。藤村さんは、まさしく“顔のいい人”なので叔父の言葉を引用すると、近づくとロクなことはない、そうです」
「ひどい…」
 桔梗は再び、まじめに傷ついた。
 そこへ桃子は、更に追い討ちをかけるかのように続けるのだ。
「ごめんなさい。でも何処かで偶然会ったら挨拶をする、というのは駄目ですか。そのうち、何かが変わるかもしれない」
「何か、が?」
「はい。人の気持ちも状況も、考えているよりもずっと簡単に変わっていきますから。さっきまでの私が、今の私とは全く違うように」
 確かに、世の中の流れはそうだろう。
 だが桃子は自分にはその変化は、もう起こらない、と思っているだけだ。桔梗に対し、あえて言葉にしなかっただけ。
 桔梗から見ても、桃子の決心は固そうだった。彼は小さく頷き答えた。
「分かった。俺は会ったら必ず声を掛ける。無視するなよ」
「はい」
「桃子。とりあえず、出逢えたことに感謝する。俺にとって、出来れば桃子にとっても、これまでの人生を変えてくれた運命に感謝しないか。だから桃子の祖父さんにも、俺は感謝する。こうして桃子に逢えたから」
 桃子の顔が、ほんの少し驚いている。そして、心からの礼を言った。
「ありがとうございました」
「寝よっか。明日、学校がある」
「そうですね」
 時計の針は、午前三時を回ろうとしていた。

 ふたりは同じベッドの中で手を繋いで眠った。その手は、どちらからともなく触れ合い、そのまま握り締められた。

著作:紫草

inserted by FC2 system