第一章

仲間

2

「ごめんなさい」
 気づくと桃子の瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溢れている。
「気にするな。泣きたいだけ泣けばいい」
 首を横に振る。勢いで、真珠のような涙が落ちる。
「もう平気」
 それだけ言うと、また歯を食いしばる。
「平気なんて言うなよ。違うだろ。ゆっくり、いこうよ」
「・・・」
──言葉にならなかった。
桃子の腕が、桔梗の体を抱きしめた‥。

「有難う。もう、本当に大丈夫です」
 桃子は落ち着きを取り戻し、ふたりは部屋の奥にあるソファに座っていた。
「自分でも驚きました。泣くなんて、一生ないと思ってた。それが、こんなことで蘇るなんて・・・」
「こんなこと?」
「摩子さんに、頬にキスされて。最初は、ただビックリしただけなのに・・、」
 再び涙が溢れた。
 桔梗は桃子を抱き寄せ、
「ずっと心が死んでたんだ。今、摩子のキスで復活した。残念だな、そのキスの相手が俺じゃなくて」
 桃子は、桔梗の目を見たくて少し離れる。
「いや、友だちから、ちゃんと始めるから。だから大丈夫。ゆっくりいくから。うん」
 するとクスクス、と笑う桃子。
「何?」
 と桔梗。
「私。昨日、散々泣いていますよね」
「そうだけど… でも、今のは違うんだろ」
 桃子の表情が変わる。
「何故そう思うんですか」
「・・・怯えてた」
 軽く二、三度頷いて、桃子は切り出した。
「叔父が、必ず、最初に頬にキスをしていたんです。慣れていた筈なのに、急に恐ろしくなりました」
「今までは、恐ろしいと思ったことがなかったの?」
「はい。一度もなかった。今、初めてです。それも、相手は女性なのに」
 桔梗は、先刻、摩子がキスした頬に手を伸ばす。その手に、桃子が手を添えた。
「藤村さんの手、暖かい」
 空白の時、そして‥
「好きだよ──」

「ありがとう。今は、私を此処に来させてくれた祖父に、私自身が初めて感謝しています。そして藤村さん、本当にありがとう」
 桃子の微笑みと桔梗の微笑み。自然にふたりの距離は縮み、やがて、ふたりの唇は重なり合っていた──。
 途端に顔を背ける桃子。桔梗はその顎に指を当て、自分の方へと向き直らせる。
「私は汚(よご)れている。その事実は絶対に消せません」
「そうか。じゃ、俺が、もっと桃子を汚(けが)してやる。それで我慢しろ」
  !
 桃子がその言葉にうろたえ泣きじゃくったのは、火を見るよりも明らかだった。
 ぶっきらぼうに告げる桔梗の言葉は、どんな慰めの言葉よりも重く、桃子を安堵という船に乗せる。そして、照れながら聞くのである。
「ところでキスはしたけど、俺らはまだ友だちのまま? それとも、俺は自惚れてもいいのかな?」
 桔梗は、かなり臆病になっているようだった。ひとつひとつ丁寧に言葉を選んだ。桃子の機嫌を損ねない為…いや、可愛くて仕方がないから。
「今だから言えることってありますよね」
「そうだね」
「私、実は藤村さんのこと、ひと目惚れでした」
 その時の桔梗の顔を、桃子は一生忘れないであろうと思う。
「お前な〜」
「ごめんなさい。でも、もっと自分に自信を持ったら如何ですか。素敵ですよ、藤村さんは」
「そういうことにしておこう」
 桔梗の言葉には、呆れてる、の他に嬉しさが隠しきれていなくて、桃子にもそれは判ってしまうのだった。
「大体あんな、ド・アップで見せられて、惹かれない方がどうかしてます!」
「開き直ってるんじゃない」
「はい、すみません」
 そう言って小さく肩をすくめる桃子を桔梗が抱き締める。
「桃子、携帯買おうな」
「お金・・」
 桔梗に、ガンとばされる。
「俺が、欲しいの。分かった?」
「はい…」
「無理にとは言わないけれど、便利だよ」
「分かりました。でも電源を入れるのは私の意志ですよ」
 桔梗は黙って頷いた。

「やっほ〜! ケーキ作ったよん」
 と摩子が飛び込んできて、ふたりの話は一先ず終わった。
 程無くして菖も現れ、皆で摩子お手製のケーキを食する。
 ほんの短い期間で、桃子は、大嫌いだった筈の“仲間”とやらに、囲まれていた──。

著作:紫草

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