第一章

策略

16

 それからの日々は、あっけない程静かに過ぎた。

 桃子自身は知らないことだったが、菖と桔梗が手をまわしたのだ。というのも、二人が各クラスを回り、そして、
「桃子に手を出したら、罰を与える」
 と触れまわる。加えてオプション付きだ。
 各々望めば、どちらかとの一日デート券が配布される。現に九割以上もの女生徒が、桃子には手を出さない、という誓約書に署名した。
 どちらか一人ならともかく、二人揃うと聞き、途端に色めき立つ。日時を合わせれば、ダブルデートだ。
「全く始末におえない」
 と佐久間は嘆くが、結果ピタリと苛めが収まり、自分には何も出来なかったのだから黙っているしかない。
「京極!」
「はい」
 生徒が署名をする間、佐久間は暇だったので状況を傍観していた。ここにきて菖を呼ぶのは何故だ、と思いつつ、桔梗は教卓を離れられない。菖と佐久間が廊下に出ていった。

「何故、お前までが、ここまでするんだ」
「桔梗は友人です。そいつの女の事なら、俺にとっても一大事ですよ」
「一度会っただけで、随分な惚れこみようだな。十文字はそんなに魅力的か?」
 と言って、佐久間は少し意地悪そうな目付きをする。
「そうですね。どういう意味でおっしゃっているのかは知りませんが、桃子ほど良い女はめったに会えませんね」
「では、平を捨てるのか?」
「えっ」
 菖は、意外そうな顔を見せる。
「そんなに好い女なら自分の物にしたいだろう。お前なら、それが可能だ」
「莫迦莫迦しい。俺にとって女は摩子だけ。桃子は、桔梗の傍にいてこそ花開く女です。どちらも、決められた“つがい”のように変わることはない」
「凄い自信だな」
「なけりゃ、今頃生きてませんよ」
 ふ〜ん、と佐久間の表情が柔らかくなっていく。
「お前もひと目惚れ、か?」
「今なら、素直に『はい』と答えます」
 その答えに、佐久間は菖の顔をじっくりと見た。
「京極、いい当主になれ。こんな、いにしえの郷など無意味だと判らせてやれ」
「それじゃ先生、職、失いますよ」
「構わん。どうせ俺は、嵌められて此処に来たんだ。今更、何を失うっていうんだ」
「そうでしたね。優秀な教師程、何らかの事情があるものばかりだ」
 佐久間の目が、菖を別の目で捉えた。
「流石に知っているか」
「俺、当主ですからね。命令はしませんが、書類の全ては俺の元を通らないと次にいきません」
「成程な。京極を背負う男か。そう思うと複雑な気分になる」
「恋人のことですか?」
「元、だ」
 佐久間の目が、遠くを見るように彷徨った。
(金で動く恋人か…)
「所詮、女を見る目がなかった。高槻先生よりはマシさ」
「…奥さん、自殺したそうですね」
「札束でも動かない女は、俺みたいな奴と一緒にならなきゃ不幸だな」
 そう、佐久間の恋人は札束で佐久間を捨て、高槻の妻は、札束を見ても顔色ひとつ変えずに相手を追い返した。
 ところが、それに激怒した高槻本人が此処への就職を決め、離婚届けを残し妻の許を去ったのだ。一時は、自分へのあてつけだと妻を罵っていた高槻も、就職が取り消されないと知ると、葬儀もそこそこに島へ渡ってきた。
 誰もが嫌がる此処への就職も、高槻にとっては魅力的なものだったらしい。 
「高槻先生は優秀な教師ですよ」
「人格に問題有りさ」
「それは一生徒に対しての言葉ですか。それとも当主に向かってのものですか?」
「否、どちらでもない。独り言だ」
「判りました。聞かなかったことにしましょう」
 菖の背を見送りながら、佐久間は思う。
(やはり、血は争えんな)

「先生」
 桔梗が、廊下に顔を出した。
「おう」
「終わりました。あれっ、菖は?」
「向こうだ。すぐ戻ってくるだろう」
「そうですか」
「大変だな、これから」
「この位、何でもないです」
 そう言うと桔梗は、意地悪そうな笑みを浮かべる。デートといっても、単に一緒に食事をするだけだ。こんなことで、桃子が守れるのなら御安い御用だ。
「どっちの枚数が多いんだ」
「ほぼ同じです」
「そうか。俺は何もしてやれん。敷地の外で何があろうと、自分等でなんとかしろ。頑張れよ」
 佐久間は首を横に振る。少し肩をすくめて、桔梗が答えた。漆黒の長髪が風に揺れる。
「はい。すみませんが、桃子を迎えに行って下さい。まだ職員室でレポート書いている筈ですから」
「一体、何のレポートを書かせたんだ?」
「性教育のマニュアルを」
「一行も、書けてないだろうな」
「これくらいしか、あの優秀な頭を混乱させるネタがなかった」
 確かに、と二人は笑った。
 佐久間は、じゃ行ってくるとその場を離れながら思った。
(よく似てるんだがな、藤村の方が、俺は好きだな)
 実際、陰で人気があるのは菖ではなく、桔梗の方だった。桔梗自身が全く知らないことではあっても、当主の菖にはわかっていた。
(桔梗は純粋なんだ。俺とは違う…)
 そんな事を想う時、菖の瞳はひどく寂しげだった。

著作:紫草

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