第一章

怪物

19

 理事長室は校舎の端にあり、比較的広い部屋だった。
 八人が座れるソファもあったが、誰もそこには座ろうとせず、入り口付近に立ったままの姿勢で身構えていた。扉に一番近い所に菖が陣取った。入って右奥に桔梗と、抱きついたまま片時も離れようとしない桃子。桔梗と向かい合う形で男が立った。
 桃子のその様子からも、桔梗と菖は只事ではないと感じていた。

「単刀直入にお聞きします。貴方は、何処の誰です」
「そういうお前こそ何だ。学生のくせに、こんな所で何をしている!」
 男が菖に対し怒鳴り声を上げる。桔梗が何かを言おうとするのを、片手で制し菖は続けた。
「聞いているのは私だ。もう一度だけ聞く。お前は、誰だ!」
 菖の、先程とは打って変わった反論を許さない言葉の調子に、渋々乍ら男が答えた。
「十文字隼太だ」
「十文字さん、貴方の渡島許可は出ていない筈です。今朝のフェリーは、貴方の仕業ですね。持っていたという証明書は、どのように入手されたのでしょう。答えによっては即刻、警察を呼びます」
 フェリーの事を持ち出され、隼太が慌てている様子が分かった。それを隠そうとするように、大きな声を上げる。
「何だと。私は、そこにいる桃子の叔父だ。今日は参観日と聞いてやってきたのだ。お前のような小倅に説教される覚えはない」
 その時──、菖の首に伸びた隼太の腕を、桔梗が掴んだ。
「何をしやがる!」
 男の罵声を、桔梗が薄笑いを浮かべ聞いている。そして、
「こいつは、京極家の当主だ」
 その言葉に一瞬ひるむ隼太。
「そんな馬鹿な話があるものか。まだ、高校生じゃないか」
 精一杯の虚勢を張って、隼太は桔梗に向かっていく。
 しかし、掴まれた腕を振り払うことは出来なかった。再び桔梗が悪態をつく。
「馬鹿はあんただ。そんな事だから十文字の当主に見限られんだよ」
 隼太の顔が、真っ赤に染まっていく。
「よせ、桔梗」
 菖が桔梗に声をかけ、掴んでいた腕が離れた。改めて、菖は隼太に向く。
「悪いな。私が現当主、京極菖だ──」

 ──隼太は、あんぐりと口を開けたままだ。菖は続ける。
「貴方に渡島許可を出した覚えはない。即刻、島を離れ給え」
 菖の顔は穏やかだったが、その瞳は決して笑ってはいなかった。
「いや、悪かった。桃子を驚かせようと思ったのだ」
「嘘をつけ!! 此処が、お前のような口先だけで生きてきた人間に、騙せる場所だと思うなよ。お前を乗せた船が本土に着くと、お前は不法侵入で逮捕されるんだ。偽の証明書を出した奴も、同じ道を辿ることになる。そいつにも恨まれると思うぞ」
 桔梗が隼太に毒気づいても、今度は放っておいた。
「何・・」
 隼太が言葉を失っていく。そして菖はというと、あくまでも、その声音は優しく話すのだ。
「此処はな、日本であって日本ではない。世界レベルの地図にすら載らない、幽霊孤島だ。此処に侵入したというだけで、当分塀の中だろうから安心しろ。裁判なんて、まどろっこしいもんも、ないぞ」
 何だか笑っているようにも見える菖。隼太は、すっかり消沈しているように見えていた。
 桔梗が、添える。
「桃子に二度と近づくな!」
 その言葉が地雷になったのか、隼太は突然、我を失った──。

 あっという間の出来事だった。桃子の体が、隼太に持っていかれたのは。

 顔面蒼白の桃子の表情が、更に色を失っていく・・
「俺の物だ」
 と連呼しながら隼太は桃子を抱きしめ、離そうとしない。必死に離れようともがく桃子だが、その腕には思うように力が入らないようだった。
 桔梗が殴りかかろうとするのを、菖が止めた。

(何故、止める)
(見ろ、ナイフのようなものを持っている)

 見ると、確かに右手に何かを握っている。
 桃子は、遂に意識を失った──。

「桃子!」
 桔梗が叫んだ。ぐったりする桃子の体を抱きしめながら、隼太は床に座りこむ。
「どけ、連れて帰る。船を用意しろ。当主なら簡単なことだろう」
 隼太は正気を失い、わめき散らしていた。やがて、腕の中にいる桃子の顔を撫で、唇を寄せる‥。

「やめろ──!」

 ──何が、どうなったのか──。

 超スローモーションでもなければ、判らない。
 結果から言えば、叫ぶと同時に飛び出した桔梗は、隼太の体を押さえ込んでいて、桔梗の声を聞いた菖も、桃子の体を抱き寄せに走り、自分の体を盾に刃物から守っていた。
 所詮、鍛え方が違う。
 折りたたみ式ナイフ(やっぱり持ってた)は、あっさりと隼太の手から離れ、桔梗が部屋の隅へと蹴飛ばした。

「桔梗、そのくらいにしろ。死ぬぞ!」
「こんな奴、死んでもいい」
「桃が泣く、お前が殺人者になったら。それも自分の為に」
 その言葉に手の緩む桔梗。失神した隼太を、無造作に床へ放り出し、自らも床に寝そべった。
 菖も桃子を床に寝かし、座り込んだ。
 駆けつけてきた警備員も、余りに急な展開に全く手が出せず、立ち尽くしていた。誰もが空を仰ぎ、深く溜息をついた──。

 暫く、誰も口をきかなかった。沈黙を破ったのは、桔梗だった。
「こいつのせいで、桃子がどんなに苦しんだか…」
「知ってる、全部」
 桔梗が驚いた表情を浮かべ、起き上がり菖を見た。菖が、小さく頷いた。
「桃の祖父さんはな、元は俺の祖父さんのダチなんだ」
 その言葉に、桔梗の驚きはピークに達した。

 遠くで、警察と救急車のサイレンが聞こえている。
 長年、桃子を苦しませた怪物は、桔梗と菖のお蔭で、ここに捕まったのであった──。

著作:紫草

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