第一章

桃子

20

 刃物を持っていたことで隼太は緊急逮捕され、そのまま本土に強制退去となり、留置場へ入れられた。その後、祖父の手引きで釈放されたが、その消息は杳として知れなかった。
 何処かに幽閉されたのだ、と噂は誠しやかに流れたが、真実を知る者はごく僅かだった──。

 菖の呼んだ救急車が来ても、桃子の意識は戻らなかった。心配した桔梗と菖は病院まで付き添い、検査を見守ることにした。
 医師によれば、精神的なものと疲れだろうということだった。ともかく医学的には何も問題がないということだ。
 京極家専用の特別個室に桃子を容れ、学校には戻らず、二人とも桃子の枕元で話を続けている。

「──で、ゆっくり聞こうか。じいさん同士がダチだって?」
 話は菖が誕生した時まで、否、それ以上に遡る。
 しかし、どこまで遡ってもキリがないので、ここでは、やはり菖の誕生まで遡ることとしよう。

 菖が生まれた時、その名がなかなか決まらずに、皆、困り果てていた。そんな時、友人の初孫誕生の祝いに訪れたのが、桃子の祖父だった。
 当時、諸々問題はあったのだが、生まれた赤子に罪は無い。早速祝いを手に来てみれば、丁度、家族が揉めにもめているところに出っくわすこととなった。
 そこで、祖父は言ったのだ。
「こんなに綺麗な顔立ちに、野暮な名など付けるな。ほら、あの花を見ろ」
 と言って、庭一面に咲く、満開の花壇を指した。
「この季節の男の子だ。菖ではどうだ。菖は菖蒲(しょうぶ)に通じる。さぞ勝負強い子となろう」
 花壇の菖蒲は、端午の節句に誕生した京極家跡取りを祝うように、満開に咲き誇っていた、その紫の花を優雅に風に揺らしながら。
 朗の字を付ける、と言ってわめいていた大祖母も「勝負に勝つ」と聞き、あっさり認めた。なかなかセンスのいい祖父だと、一時話題になったそうだ。

「俺の、名付け親だったんだ」
「知らなかったよ」
「だろうな。俺も最近知ったんだ。親父を入れる為に此処を創ることになり、仲たがいをしたと聞いた。俺が生まれた時に会ったのが最後だ、とも。今回、桃を何処かに隠したい、と連絡を取ってきたんだ。過去の因縁は、この際棚に上げてくれ、と言っていた」
「隠したい?」
 桔梗の脳裏に、桃子の表情が蘇った。
「あゝ、凄く困っていたんだと思う。なんたって絶縁していた京極にまで連絡してくるんだからな」
 そう言うと、菖は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、一本を桔梗に放る。
「どんな祖父さんなんだろうな〜」
「いい意味で、昔よくいた祖父さんだったよ。周りをきちんと観察して、正確に評価することが出来る人さ。あの人が本当に祖父さんだったら、俺も救われたかもな」
 菖の瞳が潤んでいた。桔梗は、まるで別人の話を聞くようで不思議な気がしたし、菖の胸中を思うと、その気持ちも複雑に揺れた。

 やはり桔梗の言った通り、祖父は桃子を守ろうとしていたのだった。
「桃には言うなよ。祖父さんとの約束だからな」
 と桔梗に釘をさす。
「こいつは祖父さんにとって、宝物なんだと言っていた。だからこそ人間として、ちゃんと育って欲しいと。離れに独りで置いたのも、母親と一緒にいたら駄目になる、と思ってのことだったらしい。母屋は馬鹿が揃っているから、と笑っていたな──」
 それが不幸を呼ぶとは、夢にも思わなかったのだ。あの隼太という男を見くびり過ぎていたと激怒する姿は、孫娘を傷つけられた祖父の姿そのものだった。娘婿だからと、大目に見てきたことが災いした。
「で、何処かに隠そうと思った時、当時絶縁までして反対した此処のことを思い出したんだと言っていた。俺が当主だと知ると、きちんと頭を下げるんだ。大した祖父さんだよ。ちゃんと編入試験受けさせて、入学出来るようなら頼むとの事だった。駄目なら他を当たる、とも言ってた。とにかく筋の通った、ちゃんとした大人だった。俺は申し出を受け入れ、試験会場を提供した。もし得点が足らなくても引き受けるつもりだった。そんな心配は無用だったけど。何せ創立以来の満点だ。作ってる俺自身が満点取れないテストを、あっさりとクリアしていった。それで興味を持った。期待して待っていて、初めて会ったら桔梗の女になってた」
「いや、女っていうのとは若干違うかな」
「でも今日、確かになったじゃないか」
「……」
「桃の叫んだ“桔梗”という名を、俺も愛おしい者として聞いたよ」
「あゝ、そうだな。俺も、心臓止まったよ。鷲づかみにされた」
「だろうな。初めて呼ばれたんだろう」
 桔梗が頷く。
「じゃ、尚更だ」
 菖が、静かに微笑んだ。
 浅い眠りに戻ってきた桃子の耳にも、二人の声が静かに届いていた。何を話しているのかは分からなくても、桔梗だということは判る。そして安心して、再び深い眠りに落ちてゆく──。

 丸一日眠り続けて、桃子は目覚めた。そこには、過去の全てと決別し強くなった桃子がいた。

「もう平気か?」
 付きっ切りだった菖が問う。
「はい、有難うございました」
「じゃ、邪魔者は退散するとしよう。摩子が会いたいと言っていた。また来る」
 菖が扉をスライドさせる。
「摩子さんによろしく」
「伝えとく」
 菖の姿が、扉の向こうに消えた。桃子が桔梗に向かって座り直す。そして、
「有難う」
 桔梗は黙って頷いた。
 残る桔梗とベッドの上の桃子、この後、ふたりは何も話さなかった。否、話す必要がなかった。言葉の要らない空間に、ふたりは、その身を置いたのだから──。

 退院した桃子は、再び寮へと戻り静かに暮らし始めた。隼太が、その後どうなったのか。桃子にはどうでもよかった。
 桔梗も菖も守ってくれた。皆に守られたこと、それが嬉しかった。それだけで、これから生きていく力になると思った。
 消えてしまいたい、とばかり思う人生から、地に足つけた人生に変わった。それも、とびっきりの恋人つきで。
 相変わらず桔梗の恋人として追われる日も多いが、それも慣れてしまえば楽しいものだ。
 以前とは変わったのだ。
 菖も、摩子のことを正式に許嫁として発表し、京極家も変わるだろう。きっかけは、桃子だった。十文字家との関係も修復され、交流が戻った。
 此処も、ただ無駄なだけの場所ではなかったと祖父が言う。桃子の第二の人生は始まったばかりだ──。

 月日は流れ、やがて再び桜の季節がやってきた。

 数日後に入学式を控え、生徒会役員である菖や桔梗たち、その恋人たちは準備のため春休み返上で学校に出てきていた。
「桃子。今日、予定ある?」
 いつもと変わらぬ桔梗の問いに、いつもなら「いいえ」と答えるのだが、この日はいつもとは違っていた。
「はい、菖さんが買い物に付き合って欲しいと」
「菖が?」
 頷く桃子。
「分かった。済んだら連絡してくれ」
「はい」
「持っていくの、忘れるなよ」
「へっ?」
「携帯!」
「あ〜、はい!」
 そう言いながら、しょっちゅう忘れる桃子である。

 その日の午後。
 菖に連れて行かれたのは、島に連立するデパートのひとつ。それも、VIPルームだった。
「あの、菖さん、私は何のために、ここにいるのでしょう」
「プレゼントだよ。そういや、お前らのことだから、お互いの誕生日とか、知らないままだろう」
「はい」
(おーい!)
 しかし菖の心の叫びは、桃子には届かなかった。

「知りたい?」
 菖の目が、いやらしく光る。
「いいえ」
「何で」
 怒りにも似た感情が菖を取り巻く。必死に取り繕っているが、つい手が動いてしまう。
(何してんだろう…)
 桃子は、首を傾げている。
「普通、恋人の誕生日にはプレゼントって思うだろ」
「でも、知りません」
「だから教えてやるって言ってるだろ」
「桔梗から、聞くからいいです」
「それじゃ遅いの。あ〜面倒くさ!! 同じだよ。お前ら、誕生日同じ日なの」
「ほ〜」
 と桃子が感嘆する。菖が焦っている。非常に珍しいものを見たようで、つい・・。
「桃、最近桔梗に似てきたね」
「あら、そうですか」
「で、どうする? ここで買ってく?」
「いいえ、こんなとこで買い物なんて出来ません」
「違うだろ。俺が桃にプレゼントするの。桔梗の分くらい自分で買いやがれ」
「う〜、菖さん、口悪い」
「誰のせいじゃ」
(よっく、こんなのと付き合えるよな。桔梗って凄い奴)
 ともかく決めて、買った。
 それは、プラチナのブレスレットだった。ずっと渋っていたのだが、半分、菖が強引に決めたようなものかも。
 でも所詮は女の子、嬉しそうに手首に付けていた。

 そして、
「桔梗の分は内緒」
 と言って桃子が選んだのはシャープペン。少し太めの軸で、黒一色。真ん中にある金のリングに細かい細工が施してある。今時、これがバースデイプレゼントって、桃子って変わってる。
 菖が、立替て請求した額は三千円。桃子が出した上限だ。
 しかし実際は、零が一つ余分についた。桃子の金銭感覚には、菖すら自らを戒めた程である。

 翌日、そのシャープペンを嬉しそうに貰った桔梗は、初めて、桃子の誕生日が同じその日だと知るのである──。

著作:紫草

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