第一章

転校生

4

 その年の四月、入学式に遅れること一週間。
 十文字桃子(じゅうもんじとうこ)は、指定された学習塾にいた。
 決まっていた高校へは入学せず、これから“いにしえ高”の編入試験を受験する。
 人を待つ時間、桃子は、祖父の事を思い出していた。
「よいか。誰にも知られず島へ渡れ。一切、他言は許さん」
 蘇る祖父の顔、母の涙。そして其の日、桃子は家を出た。
 しかし、桃子には行く先に心当たりはなかった。島とは何処だ。噂では聞いた事がある。
 確か、地図に載っていないのに船で辿り着いてしまい、幽閉された人がいたとか。大昔、罪人の死体を葬った場所だとか。また其処を知った者は、二度と島を出る事が出来ないとか・・。
 まさかと思っていたが、祖父から“島”と聞かされ耳を疑った。と同時に脳裏をよぎった、数々の迷信。
(あの島だろうか)
 いつも何を考えているのか、回りには全く理解不能な祖父である。ここで自分が詮索しても無駄なことだ、と判断した桃子は、考える事をやめ窓の外に視線を移す。葉桜が綺麗に光っていた。
(もう、桜も終わってたんだよね…)

 暫らくすると、担当教官が分厚いプリントを持って現れた。今時珍しく、黒縁の眼鏡をかけている。教壇に立つと、ひとつ咳払いをして、桃子をじろりと睨みつけるように視線を這わせる。
(不躾な人だ)
 と思ったものの、桃子はその思いを表には出さず、軽く会釈をした。
 ふと教室の後方に気配を感じ、顔を向ける。そこには女性が一人立っていた。その人は桃子が彼女を確認したと思った刹那、かなり深くお辞儀をした。思わず、桃子もつられるように頭を下げる。言葉はなかった。
(!?)
 不思議な感じがした。
「よろしいですか」
 と黒縁眼鏡の男が言う。突然の声に多少驚いたが、
「はい」
 と、桃子は視線を前に戻し答えた。
「これを今から三時間でやってもらいます。トイレ、食事は自由ですが、彼女が同行し不正がないかの確認をします。終わった段階で、自分が納得すれば時間前でも退室できますが、例え一歩でも席を離れたら、戻る事は出来ません。途中退席の場合は、彼女に終了を伝えて下さい」
 と途中、扉の前に立っている女性を指し、説明は終わった。
「わかりました」
「では、」
 と、男はすぐにもプリントを配る準備に入ったが、桃子がそれを遮った。
「待って下さい」
「何ですか」
「今、トイレに行くのは、一人ですね」
「勿論です。では、十分後に開始します。いいですか」
「はい」
「では、十分後に着席していて下さい」
 そう残すと、男はプリントを持ったまま出て行った。
 桃子は席を離れ出口へ向かう。
「ゆっくりしてきなさい」
 すれ違いざま、女性が声をかけてきた。少し立ち止まり、彼女の表情を確認する。
 これを微笑んでいるというのだろうか。さっきの感覚は残っていたが、それが何を意味するのかはわからない。何か、言葉が必要か、とも思った。
 しかし桃子は、その思いを無視し黙ってその場を行き過ぎた。

 二時間後、一度の中断もなく桃子は試験を終えた。そして更に五時間後、桃子の身体は“いにしえの郷”にあった。

(何て綺麗なんだろう・・)
 桃子は試験の時の女性に付き添われ、いにしえの郷に向かった。チャーターされたヘリコプターが緊急着陸をしたのは、いにしえ高のヘリポートだった。
 一高校の屋上にヘリポートがある事も驚きだが、桃子が驚いたのは、その事ではなかった。
 空から見る学校は、夕陽に照らされオレンジ色に輝いていた。
(今日から此処でしか暮らすところが無い)
 という心細い思いは、学校を見た刹那、消し飛んだ。『学校』と呼んでしまうには、余りにも素敵な建物だ。それは、まるで何処かの美術館のような、真っ白い建物だった。
 心がドキドキした。
(全てが、新しく始まる)
 それまでの思いとはまるで違う、何かを秘めた思い。期待と不安、映画ではよく観る場面のような気がした。不思議な気持ちだった。それ程其処は美しく、その瞳に焼きついた。
「あれが、いにしえ高よ」
 と、彼女に言われるまでもなく桃子はその事を認識していた。

 桃子はヘリのパイロットから、かばんと付き添いの彼女の確認を求められ、それに対し書類にサインをすると、ヘリは再び空へと舞い上がった、凄まじい音と風を残して。
 十文字桃子、ここに、いにしえの郷の住人となる。

 一通りの挨拶を終え、部屋の割り振りを受けると、桃子は食堂へと向かった。基本的に、食事を作る必要はないものの、希望を出せば調理も可能らしい。
(あえて仕事を増やすつもりもなし、料理が好きなわけでもなし、当分は出されたものを素直に食べるに限るな)
 桃子の食事に関する熱意など、その程度のものだ。
 食堂に入ると、二十人位はいただろうか。
 数名のグループを作っている者、一人でいる者、調理に関する打ち合わせをする者等、様々だ。付き添いの女は、桃子を簡単に紹介すると奥へと消え、暫くすると白衣姿で戻ってきた。
「実は、ここで働いているの。卒業生なのよ。時々、今日みたいに呼ばれてアルバイト。でも、試験に通った人は初めて」
 と笑った。

 二人で早目の夕食を取り、桃子は礼を述べ部屋へと戻った。
 廊下は絨毯が敷いてあり、歩く音は皆無だった。部屋からの音も全くしない。玄関にあったプレートで在寮を確認しなければ、人がいないと言われても、多分信じただろう。
 渡された鍵で部屋へと入る。
 当然だが、何もない部屋だった。本来、二人で使う部屋らしいが、急な事だったため、とりあえず一人で使ってもいいということらしかった。そのうち、二人部屋から出る三年生の後に入ってもらう、と寮母から聞かされた。
 荷物らしい荷物もなく、島へ渡る桃子を見て、
「後で届くの?」
 と、彼女は言ったが、そんな物は無い。大きさこそ、かなり大きなボストンバッグだったが、文字通り、鞄ひとつで桃子は島にやって来た。
 家出の方が、よほどマシというものだ。
 どんな貧乏人が来たのか、と興味津々の生徒たちが、そこここで聞き耳を立てている事に、この時の桃子は、まだ気づいていなかった。

 南側にある窓は出窓になっており、そこの小さなスペースに、小さな時計が置いてある。
 この部屋のものなのか、前の住人が忘れていったものなのか、どちらにしろ、その時計の指す時刻は間違ってはいないようだった。
 桃子は、渡された入学案内、寮の規則冊子、そして留められたプリントの束を手に、外へと出た。
 間もなく七時というところだった。

 見取り図を手に歩いてみるが、流石にその敷地は広かった。
 暫く歩いていると、そこが学校の敷地である、ということを桃子は忘れてしまった。最初こそ右へ左へ地図を確認しながら歩いていたが、いつしか、足の向くまま気の向くまま、暗くなっていく様を楽しみつつ、遂には立派な迷子となっていた。
(さて、どうしたものか・・)
 丁度、大木の窪んだ根の形が、座椅子のようになっていて、これ幸いと座り込む。
(あら、ぴったり。本当に椅子みたい)
 日が落ちてしまった以上、方向すら判らない。
(まっ、なるようにしかならない)
 桃子は、空を眺めていた。

 静かな宵闇だった。
 春四月、まだ夜は冷える。このままだとどうなるだろう、と思いつつ、桃子は眠りに落ちた。

著作:紫草

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