第一章

一目惚れ

5

「桔梗、今日はこの位にしておこう」
 京極菖は、こう声をかけてきた。
「そうだな。間もなく日も暮れる。戻るとしよう」
 二人は、馬上にて会話を繋ぎ、馬舎へと歩を進める。暫くして、一歩先を行く菖に桔梗が訊ねる。
「どんな様子だ。今度の流鏑馬には仕上がりそうか?」
 すると菖が馬を止め、振り向きながら眉間にしわを寄せ答えた。
「新しい馬は難しいからな、ギリギリといったところかな」
「菖らしくもない物言いだな」
「そういう桔梗も、このところ荒れ気味ではないのか?」
「ん〜気持ちの問題だ。俺が落ち着けば大丈夫だろう」
 再び、馬の手綱をひき、今度は菖の先を行過ぎる桔梗に、
「お前、また情緒不安定になったのか?」
「それほどでもない。」
「ふ〜ん… 桔梗、ラスト一本どうだ?」
「あゝ」
 直線七百メートルの早掛け、蹄の心地よい音が響き渡っていく。

 このあたりの土地、及び、建造物の九割を所有する京極家の現当主、京極菖は、この春高校二年となる。
 この莫迦莫迦しい発案者の直系の子孫にあたり、今尚、大祖母が事業の殆どを牛耳っている。父親も存命だが、母親と大喧嘩の果てに当主を菖に譲り引退した。菖、小学校四年生の時である。
 どんなに力があるといっても、当主の勇退は本人にしか権限はなく、昔を取り戻すのが目的の大祖母らにとって、墓穴を掘る形で菖の当主就任を承諾した。何せ彼女らの教えでは、女は影だ。
「大祖母はさぞ悔しかったろう」
 と菖は笑う。
 桔梗は、父親から菖が当主になると聞かされた日のことを、今もはっきりと憶えている。当時は、
(それが何だ! 俺には関係がないじゃないか)
 と思ったのだが、反してこの日から毎日、菖の、というより京極家の歴史講座が始まった。
 何度、逃げ出したことだろう。
「俺には関係がない!」
 と叫ぶことに疲れ、黙って座ることを選んだ後も、気持ちの中では反発していた。そんな頃だった。今から思えば、ただのナンパだ。
 だが当時の桔梗には、年上の落ち着いた女だった。彼女に会うと楽しかったし、どんな我慢も出来た。二人の将来の夢も実現すると信じていた。そんな時、菖の中学進学が“いにしえ高”と聞かされ、お前も行くのだ、と命令された。
(冗談じゃない! あんな離れ孤島に誰が行くか)
 桔梗は家を飛び出し女のもとへと向かったが、そこで、父親の部下と女が一緒に帰ってきたところに出くわした。幼かった桔梗は正直に聞いた。
「何故、そいつと一緒にいる?」
 と。女は答えた。
「私、彼と結婚するの」
 後に、桔梗と別れるならと出された小切手と、それを届けた男との結婚が条件と聞き、その場でOKと言った、と聞いた。
 誰よりも信じていた人間に裏切られ、子を子とも思わない親にも失望し、桔梗は次第に自分の居場所を失っていった。
 同じように、菖も当主でありながら、自分では何一つ決められない生活に疲れていた。父も母も離れた。祖母は今尚、大祖母に頭が上がらず、大好きな祖父は病院のベッドから動けない。
 菖は人形のように決められた生活を送る。そこに、人間らしさなど欠片もなかった。
 その後、群がる人間どもに嫌気が差し、菖は中学から島に渡ったものの、此処にも同じ種類の人間がうようよしていた。
「そんなに京極の名が欲しいのか?」
 菖は、次第に壊れていった。

 皆が、菖を“様”付けして呼ぶ。いい大人から老人、果ては、片言の言葉を漸く話し始めた子供までが、菖を宝物のように扱った。
 そんな中で唯一、まともな反応をしたのが桔梗だった。
「いい気になるな!」
 初めてその言葉を聞いた菖は、大粒の涙をこぼし泣いたのだった。
 その日、中学の入学式。二人は出会い、以降ずっと二人は親友だ。他の誰でもない二人だけの絆が確かに存在した。
 しかし、その絆は二人を縛りつけるものではない。現に菖に女が出来たが、二人の関係は変わらなかった。
 ただ、桔梗に限定してみると、微妙な変化をもたらす事となった。言葉で、これだ、と表すことが出来ないような、心の揺れ。これだけは、菖にもどうする事も出来なかった。

 馬舎に戻ると、菖の女、平摩子(たいらまこ)が待っていた。
「暫く残る。先に帰れ」
 と桔梗が告げると、二人は肩を並べて帰っていった。

「はぁ〜」
 重く長い溜息だった…。
 桔梗は思う、自分は意外と弱かったな、と。
(何をすればいい・・。思えば、中学からこっち、菖が隣にいないのは、トイレくらいだったからな〜。不思議な物足りなさだ。でも、どこか心地よい)
 桔梗は、お気に入りの何時もの場所へと足を向けた。少し離れた処から、そこに人影のあることを気づいていた。
(行き倒れか!?)
 まさか、と思いながらも様子を伺った。

「綺麗な子だな〜」
 思わず、口をついて出た。
 気付いていないが桔梗は、生まれて初めて人を見て“綺麗だ”と思っている。


著作:紫草

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