第一章

桔梗 U

6

 いつも自分がいる場所に、静かに眠る女の子。見慣れない顔だった。
 桔梗は自分でも気付かぬ程、自然に女に近づいてゆく、もっと、しっかり顔を見たくて。知らない内に、二人の距離は十センチほどとなっていた。

 彼女、十文字桃子は、気配を察し瞳を開く。
「誰?」
 その声に、桔梗は自身が近づき過ぎている事に気付き驚いた。
「藤村桔梗」
 刹那、突風が吹いた。二人の髪の毛が、絡み合う。
「うっわ、やば」
 慌てて離れようとしたが、すでに手遅れで、桔梗の髪は桃子のシャツのボタンに引っかかっていた。
 思わず吹き出す桃子。
「ごめん、今取るから」
 あせる桔梗を見ながら、桃子は知らず知らず声をかけていた。
「あの…」
 自分自身がびっくりしていた。
「えっ、何?」
 驚きすぎて、一瞬言葉を失った桃子。桔梗の手は器用に髪をほどいていく、その耳たぶを真っ赤に染めながら。
 一呼吸。
「いつから伸ばしているんですか?」
 と聞いたのは、桔梗の腰に届くまでの髪を見ているから。
「髪? もう五年になるかな。お前は!?」
 桃子は、しかしそれには答えず、思い立ったように声をかける。が…。
「・・えっと、藤崎‥さん?」
「いや、藤村」
「ごめんなさい!」
「わっ、頭下げるな」
「あっ! 重ね重ねご免なさい…」
 次第に、声のトーンが落ちていく。
 クスッ、と笑う桔梗に、桃子も苦笑い。
「で?」
「えっ?」
「何?」
「あ〜、藤村さんほどではないです」
 桔梗は、その表情に疑問符を目一杯表した。
「髪の長さ」
「あゝ。そういうお前も長いじゃん」
「藤村さんほど、長くないです。それに私の前髪は短いですよ」
「ん? ホントだ」
 顔を上げる桔梗。その時、桃子は初めて桔梗の瞳を見た。
 一方、桔梗の方はというと、
(やっぱり、可愛い)
 と思っていて、更に赤みの増すその頬をどうすることも出来ずにいた。
「日が落ちたせいでしょうか。藤村さんの髪は漆黒に見えます」
「いや、明るくても黒だよ。染めてない」
「ここの人は、みんな黒ですか?」
「まさか。う〜ん、七割以上に茶が入ってる。ん!? 知らないのか。あっ!取れた」
「有難う存じます」
「悪かった、じゃ」
 そう残すと、桔梗は桃子の元を離れ始めた。
 その背に向かい声をかける。
「あの〜」
 振り向く、桔梗。
「ついで、でいいんですが、もしお嫌でなければ、女子寮の場所を教えて戴けると有難いです」
 桔梗は、暫く黙って桃子を見つめていた。
 そよそよと風が吹いている。
「迷い子か?」
「それは、もう立派な迷子です!」
 桃子は、安堵しきった声を上げた。
「そりゃいいや」

 ひとしきり笑った後で、桔梗は、腕を伸ばして方向を示す。そして、
「一緒に行こう」
 と手の向きを変える。
 桃子は頷いて差し出された手を取り、根の窪みから抜け出した。
 並び歩く二人。
 大きい桔梗に、小さな桃子。
「入学式に間に合わなかったのか?」
「いえ。編入試験を受けてきました」
 少し前を歩いていた桔梗は、驚いたように振り返った。
(何?! 今こいつ凄い事、サラリっと言ったぞ)
 見ると、桃子は何も判っていないようだ。にこにこと桔梗の後をついてくる。
 まだ四月。この時期の編入生は珍しい。桔梗は、てっきり入学予定の生徒が遅れてきたのだと思い込んでいた。
「優秀なんだな」
「そんなことはないです。他に行くところがなかっただけです。だいたい試験の結果もまだ聞いてないんです。それなのに此処に連れて来られて、もし落ちていたらどうなるんでしょう…」
 桃子の不安な気持ちを桔梗は素直に聞いたものの、それは非常に珍しい感情のようにも思えた。
「ここへは、どうやって?」
「ヘリコプターで。私、へりに初めて乗りました」
「なら、大丈夫だろう。ここへ緊急ヘリで来るだけの結果だった。そう思うよ」
「・・・」
 桃子が首を傾けた。すると。
「ひゃあ〜」
 春風の悪戯か・・。
 今度は桃子の髪が、桔梗の着けていた鎧直垂の飾りの部分にひっかかった。
「どうしましょう。私、届きません」
「そこのベンチに座ろうか」
 桔梗は笑いを押し殺すように言い、桃子の肩を抱くようにベンチに腰掛けた。
 そして再び、その髪を解き始める。
「ごめんなさい」
「お前が謝ることではない。それに、さっきよりは簡単さ。二年?」
「一年生です」
「そっか。では、明日の放課後、校内を案内しよう。教室で待っていろ」
 桔梗の視線は、髪に向いたままだ。桃子は逡巡した。
「でも…」
「気にするな。勿論、お前がいやなら止めるが」
「いえ、いやというわけでは‥」
「なら、決まりだ。クラスは?」
「まだ、わかりません」
「調べて、俺が行く。心配するな。あっ!」
「?」
「名前」
「十文字桃子」
「トウコって、どんな字?」
「桃の節句の、桃です」
「美味しそうだな〜」
「毒入りです」
 そりゃいい、と笑う桔梗。
(う〜ん)
 笑われるところだとは思わなかった桃子である。
「取れた」
 素早く、片肩に髪を編む。
「こっちだ」
 そして今度こそ、二人は連れ立って歩いていく。桃子は、凍死することなく無事に寮の部屋へと辿り着いた。
 その時、外を窺う多くの視線に、二人が気づくことは残念ながらなかった。

著作:紫草

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